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(フォーラムについての所感)
2000年10月7日(土)、「芸術とヘルスケア」として医療・高齢者や障害者とアートの関わりをテーマに巡回フォーラムが福岡で開催される。縁あって実行委員長として関わることになった。このフォーラムに関するハンドブックの中に「現代のアートは人や生活から遊離しすぎている。もっと芸術を社会化し、社会を芸術化しなければ。自分自身が創造に関わることで人は治癒されていく」とある。しかし、そのアートが単に「よくできました」的な安易なものに流れかねないという危惧も私はもっている。私は自分の存在を、「表現する」ことでぎりぎり保ってきた人間である。石や木を彫る抵抗感の中に、抱えてきたものを託してきた。私にとって表現はヘルスケア(健康回復)ではなく、「存在回復」といったものかもしれない。その感覚から、いままでアイヌ民族、障害者、外国人就労者の問題にも関心を寄せてきたのである。
 私が考える「芸術」とこのフォーラムで語られる「乗り越えられるべき芸術」の定義がずれているように感じる。その以前に「芸術」「ヘルス」という言葉の硬直した感じが気になる。芸術という言葉を柔軟に捉えなおすことで、全ての人々の存在が回復されていくというところに持ければいいのだが。私もこれを機に「表現」とは何かをもう一度問い直してみたい。7月9日に難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っている山口進一さんにお会いした。この病気は筋肉が徐々に動かなくなる病気で、心臓の筋肉がとまる直前まで聴覚や思考はそのままなのだそうだ。彼はもとコンピュータ関連の仕事をされていた。現在Webを通じた活動を精力的に行っていらっしゃる。彼のHPは以下の通り。ぜひアクセスしてほしい。このフォーラムにパネラーとして参加していただきたいと考えている。芸術療法という枠を飛び越えていく強い生命力を彼の中に感じ、ただ脱帽するばかりであった。だれのためのフォーラムなのか、よく考えなければならないと肝に銘じた次第である。

http://www.fsinet.or.jp/~makosanz/als_page.htm/

以下はこのフォーラムのテーマの一つであるエイブルアート(障害者の表現)について委員会にポストしたメールの転載である。

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「芸術とヘルスケア」を拝読した感想と、フォーラムに関する個人的な希望を書かせていただきます。

●「表現するという行為から治癒される」「表現したものが人々意識や社会構造を揺さぶる」という二つの視点がこの本にはあり、大変興味深く拝読しました。この本のテーマのひとつであるエイブルアートに関して、私が可能性を感じている点は2つあります。
1)表現することから生じる存在の力が、その表現者を受け入れる「枠組み」創っていく方向性。

2)「批判や評価の対象を外れたところにある、ひとつの人間のあり方」を確立する可能性がある。表現はこうでなければならないという「不自由さを取り払う」新しいパワーになりうる。

 この2つのことを説明させていただく前に、ハンドブックの中で少し引っかかった点からお話したいと思います。
 この中での現代アートへの批判については私も大いに共感するところです。
しかしここであげられているアートの概念は、少々狭義であると感じます。現在のアートは多種多様です。アートそのものが(宗教から自立した後は)常に既存の社会や芸術自身への「批判」として、姿を変えてきたのです。
閉塞的構造を打破しようとする衝動が、具体化してきたものなのです。おしはだかり自分をくじくものに挑どみ、うち開く自由、それを個人の責任において引き受ける行為です。
 注意すべきことは、ここで権威主義の象徴として例があげられていた人体彫刻ひとつにしても(<形骸化した公募展用の作品など私も好きではありませんが)そこから得るものもあります。いざ人体を創ろうとすると、「よく知っているはずの人間を、人間は一番わかっていない」ことに気づかせてくれます。どのような人間も、重力や自然の諸事情に対して絶妙なバランスをとっています。人体制作はその不思議さ・美しさを、心を通して気づくきっかけです。つまり
どのような表現であっても、その深みや広がりを知らずに簡単に切り捨ててしまうということは避けなくてはいけません。それは障害者のアートをアートでないという言説と同じくらい暴力的なことなわけです。
 批判をするときは、より慎重でデリケートな認識が必要です。
何かが何かを乗り越えるのではなく、それぞれに影響しあって、全てのものが力強くなる方向を模索しなければなりません。
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 前置きはこれくらいにしてフォーラムに賛同する理由として1)2)の説明をします。
1)表現するということは、自分と周り、自分自身へ関わり(抵抗感に近い感覚)を強く感じさせ、世界と自分との関わりを回復するきっかけになります。関わりの中で生きる自分を回復するから、感情が安定する(癒される)のでしょう。
「自分は、世の中にいていいのか?」という存在感の希薄さは、現在人共通の恐怖です。表現とは、裁判とは違ったかたちで、その人独特の「心」の存在の力をまわりに認知させます。
 表現の媒介になる音、色、形、言葉などの要素は、誰にとっても平等にその門を開きます。その平等性は大切なことです。それらは人と人とのコミュニケーションの中でいいワンクッションになります。
近い将来、
万人が何かしらの表現手段を持つことが必要だと私は思っています。(その表現は決して安易なものでなく、その人のリアリティに真摯に迫っているものであってほしいですが。)
 そして、純粋に表現することから生じる
「存在」のパワーが、社会構造の変革をせまる。そこが、このフォーラムのおもしろさかなと思います。

2)障害者のアートに対する、美術批評家の慎重な態度(無視に近い状態)は「それを評価、批判してよいのか?」という怖れや戸惑いからきているのだと思います。
 批判してはならないという対象は、対等な力関係にないということかもしれません。
でも私は、その点が逆に、今までにない認識をもたらすような気がしているのです。
 いままで、ものごとはある価値基準や達成目標に向かって、検討され評価され上下関係が生まれるようなしくみでした。これが閉塞的な社会構造をつくりだしている元凶です。
 人は「評価されない業績は価値がない、批判されなければ人間はとんでもないことをしてしまう」と非常に簡単に信じきっています。
 エイブルアートのすごいところは
「批判や評価がなくたって、あるんだ」という人間の生き様を、バーンとみせてしまうところです。「このような自分のままで受け入れてほしい」と訴えてくる力がある。
 
もちろん批判はあらゆる場面でとても重要です。でも人間の心は価値基準で切り刻まれない部分も必要だと私は思います。その部分(闘わなくていい避難場所=安心できる居場所)を人間はどこかで欲している。社会の中に創り出そうとしている。
 逆説的なようですが「闘わない場所のアート」が、その意図がないにも関わらず、人々の意識に対しては闘う力を持っている。社会の前に表現が在るとき、自ずとそれが社会(意識)を揺さぶるという闘い方なのです。(<現代アートが本来めざしているものなのですが)
 だからこそ、アート(表現)のあり方自体に不自由さがあってはならない、と強く思います。自分のやりたいことが素直にできない状態は異常です。(組織や権威で脅かされるなど)
「表現というのはこうでなくてはならない」という縛りを、静かに取り払う力がエイブルアートには在るような気がします。

支離滅裂でしたが、以上が私がフォーラムに対して期待する点です。
堅苦しい話になってしまいましたが
やはり、人間に受け入れられるにはユーモアや魅力が必要。いかにフォーラムを魅力的にするかということに、多くのデザイナーや学生が関わってくれたらいいですね。

●個人的な希望ですが
完璧にお膳立てしたあるフォーラムの内容を、そのままやるというのでは、福岡に人々の志気が上がりにくいような気がします。自分が関わったことによる影響がないとわかっていれば、それぞれのエンジンもかかりません。みなさんの提案が活かされる場面づくりをする、その余裕があればフォーラムも成功するような気がします。

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