彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

2006年8月/9月/

9月1日
鉄の溶接を始める。おおまかにデッサンを格子で分割し、心棒の長さの目安を出す。径9mmの中心の鉄棒は最終的には取り去る。これを鉄板にアーク溶接で立てる。6mmの鉄棒を叩いて成形しガス溶接でつけ、形態の動勢を決めていく。

計画があるわけではない。この線がどうしても必要だと思ったところに、直感的につけていく。空間にデッサンしている感じである。横から見ても、前から見てもそこに必然的にある線でなければならない。集中し、ここしかないという気持ちになるまで鉄と格闘する。その空間と気持ちが繋がった感じがしたら溶接する。せっかく位置が決まっても、溶接する瞬間に動いたり、熱で鉄が曲がったりして思い通りにはいかないのである。

説明しつくしてない(完成していない)形は、私にとって魅力的だ。主要な心棒だけの方が、軍鶏の感じが良く出ているように思う。でもやれるだけやって、そこから引き算したものには(最初と同じになったとしても)何か残存するものがある。

人生も同じで、幼児期の人間は神様のようである。しかし数々の苦難を乗り越えた老人の笑顔にも神性が宿っている。

9月8日
来年の助教制度を前に業績をあげよ、いうプレッシャーがかかっている。ひとつは博士論文、もうひとつは出品する団体を増やすこと。来年度から授業を担当するが、科目は自分独自に打ち立てるというのではなく、旧来のものを引き継ぐそうだ。前任の先生がいらっしゃる中、授業計画が難しい。

論文テーマは大きなところで「造形における死生観」である。先祖である英彦山山伏やシュタイナー、ジャコメッティなど求道的な思考に関心がある。資料を取り寄せては読んでいるところだ。結果を先送りする「道」という概念が、人間の生の姿に重なる。証明されえない内面世界(死後)をデザインすることによって「生」の意味を読みかえようしていた彼ら。(→シュタイナー/超感覚世界の認識)宗教や芸術が肩代わりしてきた思考を、日常の実生活に還元する必要があると感じている。

また私自身が出産育児を経て農や食、福祉、芸術のゆるい繋がりが生まれつつあることを感じている。そのようなオルタナティブ・アートスペースについても、考察を深めていきたい。負荷から逃げたくなる気持ちもあるが、できるだけのことをしようと腹をくくった。

9月14日
論文の準備と制作を半々で進めている。文献複写で集めた先行研究などに目を通している。なぜ私はこれらの文献を選択したのかと自問する。それがいつか「なぜ私は創るのか」という問いに変化していく。今までの活動も振り返る。中南米のポストコロニアル(植民地以後の意識)・アイヌ民族・障害者の芸術へのアプローチ。出産や農と食の問題も作品の契機となっている。

制作しながらハッと気づいた。私の中に埋められない歴史の断絶と空白がある。口伝の英彦山修験道の伝統は、受け継がれなかった。修験道禁止令の残骸としての「経済的困窮と家父長制」が祖父母の現実である。山を降りた父の家庭に生まれた私は、完了してしまったものを前に為す術がない。母の涙を思い出す。その痛みが私のリアリティである。

主流から黙殺されがちな存在に関わってしまうのは、解決の見通しがない葛藤を私が抱えているからなのだ。過酷な現実を生き抜く人間への愛が、彫刻になっていったのかもしれない。

論文や制作を通じて、歴史の断絶に向き合おうとしている。この作品のモデルは闘鶏で失眼した大軍鶏である。最も苦しんだ時期(18年前)に制作した「ばんば」と同じ様式になったことを客観的に考えている。もしかしたら「空白」ということが私のテーマなのかもしれない。(量感への渇望は、同じ根の表裏である)痛みの代価としての作品が、他者にポジティブな感情を与えるのは、芸術の不思議さである。

9月16日
学生の希望で土曜も工房を開けることに。子供たちを主人にまかせ、後ろ髪をひかれながら家をでる。週末に制作できるなんて何年ぶりだろうか。今日仕上げられるかもしれない、という予感がした。

接合部分に溶接棒で表情をつけていく。先端部分というのは意外と眼がいくので神経をくばる。仮の台座(鉄)と心棒を溶断。前足の下に5cmほどの鉄芯をいれる(木の台座へ固定するため)

製材した樟に、柿渋を塗る。これは渋柿を発酵させたもので、防腐効果もある日本古来の塗料だ。においがきついが、自然な色合いで気に入っている。その上にエゴマ(木材用油)を塗布する。固定用の穴をドリルで開けておく。

白っぽい仕上がりにしたくて、試行錯誤する。透明の合成漆(カシュー)と砥の粉を混ぜてみる。(本物の漆はかぶれる体質なので使えない)うまくいかないので、生乾きのカシューの上に、白と赤の砥の粉をはたいてみる。手で押さえたり振りかけたりと、砥の粉が散乱する中、思い描くマチエールに近づける。ブロンズの蝋型鋳造時の湯道を思い出す。

この作品の恩恵は、何故創るのかという自分の中心がはっきりしたことだ。作業しながら、次の作品の構想が心にうかんだ。

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9月27日
 9月後半は科学研究費の申請書づくりのため、文献研究にはまった。テーマを絞ろうと苦労したが、絞らない方が時代の気分に近いと思い「オルタナティブ・タナトス ー芸術・農と食・福祉・環境・教育とのゆるやかな交差」とした。現場の調査をするために科研費を申請しようと方針を改めた。大学では「科研=業績」扱いで大変な力の入れようである。私の研究(?)は彫刻制作なので、なんとなく科研にかみ合わない感じがある。でも人間としての責務を、論理的にまとめることには意義があると思い、今回は自分のために文章化してみた。

 ハンセン病を患った作家・北条民雄、民宿「土の宿」を営む脳性麻痺障害者・木村浩子の著作などを読んだ時は、ガーンと頭を叩かれるような思いがした。論理的に自分に落とし込むには、随分と時間がかかりそうだ。

 新しい作品を、NPOエスタスカーサに寄贈しようと構想を練っている。子供をテーマにしようと考えている。形が甘くならないようにと肝に銘じ。モデルになってみる?と長女に言うと、写真のポーズをとられた(笑)

>Buck