ニ風谷プロジェクト (アイヌ民族とニ風谷ダム問題)
九州芸術工科大学 知足院美加子(彫刻家)
「回想―ニ風谷ダム」 黒大理石 1999年
■ニ風谷(にぶたに)ダム裁判は、アイヌ民族の先住性がはじめて公的な場で論議された裁判だった。ニ風谷ダムは二風谷アイヌ民族の生活文化や信仰にとって大切だった沙流(さる)川のニ風谷村流域に建設された。(計画は30年前に決定)アイヌ民族である萱野(かやの)茂氏、貝澤正氏は(正氏が死去した後、耕一氏が引き継ぐ)ダム計画に対して「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こした。この裁判でアイヌ民族の先住性が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず(1997年)、ダムは施工されてしまった。 このダムを契機として作られた作品(上図)がニ風谷に設置された経緯を、ニ風谷プロジェクトとして報告する。 ■1997年、判決文の内容はニュースで取り上げられたが、ダムが施工されてしまったことを私は知らなかった。ダム完成後のニ風谷をはじめて訪れた時、ダムを前にして立ちすくんだ。なにより衝撃だったのは、自分が何も思えないということだった。この土地の生活を回想する要素を、私はかけらも持っていない。忘却するものも持てない悲しさが回向した。 ■私は今回のニ風谷プロジェクト全体をアートにも社会運動にもしたくなかった。しいていうならばこの活動は各々が本気で見つめ、さらに意味を限定しないまま考え続けるための装置だった。変革でも闘いでもなく、まず実感として気づくために動いたのだ。活動が切り取った様々な思いと関係性そのものが、現実の一断面である。私にはその残像を文字として固定する能力はないが、ある人物の意思を伝えるためにこの場を借りようと思う。 問題はその土地の空気を吸い、生活する毎日の隙間に垣間見えるものだ。私は彫刻の台座を作る手助けを理由にして、多くの人々にニ風谷に訪れてもらおうと考えた。1999年8月、農業を営む貝澤氏宅の納屋で生活し、援農しながらの設置作業をはじめた。活動内容は、現地で毎日ホームページを作りWebで流した。 彫刻台座に碑文をつけた。
■この活動に先駆け、1999年7月貝澤氏らを講師に招き、私が勤務するデザイン大学においてアイヌ文化のワークショップ(木彫、刺繍など)と講演会を行った。表象を作り出す日本人側の意識が深まらなければ、事態は改善しないからである。正しいことだけを振りかざしても、人は問題に目を向けるわけではない。(軽視されがちな)楽しさや好意の感情が、深刻な問題にたどり着こうとする力を与えることを忘れてはならない。実際に会い、その人が表現することを受け止め、自ら行為することも、理解の一つの形である。 彫刻台座に碑文をつけた。また1999年10月に「近代化の中のアイヌ差別の構造」(明石書店)の著者である、計良光範・智子氏を招き座談会を行う。その中で観光の問題や、文化の取り戻しや差別について討論が行われた。日本人は原罪としてではなく責任として状況を見つめ、体制や人々の意識にアプローチしていかなければならない、ということが確認された。 これらの活動は理論をマニュアルとして、あてはめながら動いたものではない。最終的な結論に到達するためでなく、出会いや気づきの中で、変更を恐れず柔軟に対応していっただけなのだ。しかし意味や結論を限定しない寛容さを維持するのは至難の業である。意味や結論を求める人間が多すぎるからだ。関わる人々のそれぞれに応じた答えがあり、そこから始まる、それは多分私がものつくりとして身につけた考え方である。そのような活動のあり方も排斥するほど、知識人は不寛容なのだろうか。 以上が昨年の活動の報告である。論文という形にならないものに関して、発表の機会を与えていただいたことに感謝したい。貝澤氏らがニ風谷ダムを盾にして訴えたかった物語を、できる範囲で私も伝えていきたい。しかしこれからは彼らの生活をかき乱すようなことがあってはならないと反省している。活動の形態などを考えるよりも、出会った人々の事情を大切にし力になれるところは手伝う、ただそれだけである。 (2000年1月11日) 「Traces」国際シンポジウム(1999年12月15日)発表内容 |