「開発と文化」 講師 貝澤耕一氏

アイヌ文化体験交流会/講演会 (九州芸術工科大学)

 皆さん、こんにちは。ご紹介にあずかりました貝澤耕一です。私の本職は百姓ですので、話はあまり上手ではありません。ただ私の講演会を聞いていただきたいというのは、日本でもこういうことが行われているんだと。(皆さん九州の方々なのでご存じになる機会が少ないかと思いますが)人間を侮辱するような事が行われていることを理解して下されば幸いかと存じます。

 私が生まれたところは、北海道の南側、昆布・競走馬の産地である日高山脈の近くの村です。千歳飛行場にも近く、札幌までも2時間もあれば着くという地理的には便利な所です。その二風谷という村で私は生まれ育ちました。アイヌ語では「ニプタイ」木の生い茂る所という意味です。この村というのは、戸数で140数個、人口500人ほどの小さな村です。この村の7割以上の人々がアイヌ民族の血を引いていると言われています。言い換えますと、アイヌ民族が世界の中で一番密度濃く生活している場です。北海道庁の調べによると、自分をアイヌ民族と名乗った人は約2万4千人います。しかしその10倍はアイヌ民族はいるだろうといわれています。なぜ名乗らないかというと、歴史的にまた現在も、アイヌ民族はひとつの民族として認められていないためなのです。

 皆さんの中にもご記憶の方いらっしゃるかもしれませんが、元首相である中曽根さんが「日本は単一民族国家である」という発言をしました。また神戸大震災の時、ある大臣が「日本は単一民族国家だから、こんなに復興が早かった。」という発言をしましたね。そういう考えのもとで、日本はアイヌ民族を認めていないんですよね。そして認めていないのは、アイヌ民族だけでなく、第二次世界大戦の時に日本政府に協力し、旧ソ連に住めなくなって北海道に移り住んだギリヤークの人たち。それよりもたくさん、皆さんのすぐそば在住している朝鮮半島から来られた方々がいます。その人たちだって日本における少数民族なんです。その人たちをを日本は認めずに、日本は単一民族国家だという。

 在日の方々より少しは私たちが幸せなのかなと思うことは、私たちには日本国籍と共に選挙権がある。在日の方々は、皆さんと同じように義務教育を受け生活をしているにもかかわらず、日本国籍も選挙権ももらえないという現実。こういう矛盾を皆さんに気づいていただきたいな、と思います。そういう方々ばかりでなく、東南アジアやいろいろな国から来た人々が日本に住み着いています。その人々だって、日本の少数民族なんです。独自の言語と文化を持っている民族なんです。

 1992年まで外務省は国連に対して、日本には少数民族は存在しないと報告していました。1993年になってはじめて「日本に少数民族がいてもやぶさかでない」という報告書をだしたのです。日本の大好きな曖昧な表現です。いるといってもいい、いないといってもいい、それは勝手だよ、でも私たち政府としては存在するということをはっきり認めませんよ、という報告書が、未だ訂正されずにそのままになっています。

 それではなぜ私たちアイヌ民族がこうなったかということについてお話しします。あまりにも私たちの最後の天地・北海道.......最後の天地というのは、おそらくアイヌ民族というのは全国にいたのです。先日NHKでDNAに関する番組があっていましたが、アイヌ民族と沖縄の人々ではDNAが一つしか違わない。たぶん同一民族だったのでしょうね。だから私なんか沖縄にいくと「宮古んちゅう」といわれて地元の言葉で話しかけられて困るんですね。何を言っているのかわからないからニヤニヤしてると、答えないから怒られる。番組でも言ってましたが、たぶん朝鮮半島から来た人々にアイヌ民族は北に追いやられた。そしてどんどん追いやられた最後の天地が、北海道だったんでしょう。

.......最後と思っていた北海道、しかしそこもだめでした。あまりにも「自然の幸」が多すぎたんですね。自然が豊かすぎた。「見渡す限りの草原」と観光パンフレットに色々書かれていますが、もともとの北海道というのは大木に覆われた密林の島です。 その密林の島北海道で、アイヌ民族は周りの木や草や動物・川から自分たちの生活の全てをいただいて生きていた。ですから周りの動植物がなければ、自分たちが生きることができないということを充分知っていた民族なのです。その生活が、つい100数十年前までは行われていたのです。ところが、そこは日本にとって非常にお金儲けが可能な島だった。

皆さん、日本で一番昆布の消費量が多いのは、沖縄ですよね。ところが沖縄で昆布取れないんです。取れないのに、なんで消費量が多いのか。答えは簡単なのです。

 はじめに持ち出された北海道の幸は、海の幸でした。海草であれば乾燥させて、北前船にのせ、北海道から日本海を越えて関西の方まで運ばれた。魚であれば塩漬けにするとか、乾燥させるとか、あるいは煮詰めて油を取り、残りは農業用の肥料にするなどして、どんどん関西地方に運ばれた。大量に来れば処理に困る。処理に困ったものをどこにぶつけたかというと薩摩藩です。薩摩藩だってそんなに消費できない。それではどこにいくかというと沖縄です。そのようにして昆布のとれない沖縄が、日本最大の昆布の消費地になっていった。そのコンプ、日本語で昆布と発音してますけど、あれはアイヌ語なんですね。......アイヌ語では濁音の発音がありませんから、コンプと発音します。皆さんがよく知っている言葉の中でアイヌ語のものといえば、トナカイ、あるいは動物園で人気を読んでいるラッコもアイヌ語です..

まずは海の幸が北海道から持ち出され、次に内陸へと向かっていった。内陸に向かうということは、山の幸です。先ほども、申し上げたとおり密林に覆われた島・北海道には木々がたくさんあった。昭和初期までその木々をどんどん運び出して、ヨーロッパに売りつけています。ナラの木を1メートル立法の角材にし、船に積み、ヨーロッパに運び出しています。木を切り出す作業から、船積みまでの労働のほとんどは、アイヌ民族が強制的にやらされていたといいます。日本には奴隷制度はなかったと思っている方もいると思いますが、アイヌ民族は実質的な奴隷として使われておりました。

 北海道を何度も探検している松浦武史郎が言っています。記載されているものによると武史郎は、二風谷に上陸したと。なぜ「上陸」という言葉を使っているかというと、密林の島北海道では歩ける道がない。川を船で渡り歩いたんですね。川から一つの村に上がるから、上陸なんです。そのとき松浦武史郎は、二風谷の村には15才から50才くらいの男性が誰もいない、と記しています。その男の人たちがどこに行ったかというと、北海道の西・厚岸という所に連れて行かれていたのです。魚を捕って、その魚を煮詰め油を取って、その粕を詰める作業をさせられていた。皆さんもおそらくこの名前を知っているかと思いますが、萱野茂さん(元参議院委員、2006年逝去)のお爺さんはそこに連れていかれました。労働がきつい、まともな食事を与えられない....そこから逃げ出したくて、自分の指を切ったほどなんですね。指がなければ帰してくれるだろうと。それでも帰してもらえずに、一年中働かされた。奴隷と変わりないですよね。

 一年働いて与えられた物といえば、本州では普通に生活の中で使われていた漆塗りの器一個です。それが年間の報酬として与えられた。一年も働いて貰ったものなのだから、おそらく高価なものなのであろうと、アイヌ民族は思ったんですね。博物館などでアイヌのものが展示されてあったら観て下さい。必ず、漆塗りの容器が展示されています。それはアイヌが宝物と思って、大事に保管していたからなんです。北海道では漆塗りという技術がなかったのです。

 なぜこんな事をしたかというと、日本は北海道という「土地」が欲しかったからなのです。アイヌはロシアとも中国とも交易しておりました。耳飾りやネックレスなどの宝石、アイヌの衣装の中のきらびやかな絹衣装、それはほとんど中国から来ているのです。日本はそれだけでも欲しかった。知床にある遺跡からは、ワインを作った痕跡も出土している。アイヌ語のなかでプレシサムという言葉があります。「プレ」は赤い、「シサム」というのは隣人という意味です。白人はすぐ赤ら顔になりますね。髪が赤いからプレシサムではなくて、顔が赤くなるからプレシサムというんです。これらのことは、ロシアとも交易していたということを物語っています。

このように自然の幸が豊かだった北海道を、日本の土地にしたい、ということで日本人は北海道に侵出してきました。その過程で一番邪魔になったのが、私たちの先祖アイヌ民族なのです。ですからアイヌ民族を無きものしなくてはならない。もしアイヌ民族が住んでいることが世界に知れたら....まぁその時代は今ほど情報網が発達していなかったのですけれど....自分たちの領土にする事ができない。そこで日本政府は、北海道に3つ大きなお寺を建てました。伊達地方のダテ、道南のウスというところ、そして日高地方のサマニというところです。

 これは北海道は俺たちの領土だ、という証なんですよ。対外的にここは日本の土地だという証として建てている。そのなかで、アイヌと交渉したり、調印したりしたことがあったかというと、一切そんなことは行っていないんですね。世界広しといえども日本のように、もともとその土地に住んでいる人となんの話し合いもなく、約束もなく入り込んできたというのは殆ど例がありません。そういう状況の中、日本人がどんどん北海道に入ってきた。そして自然の幸を持ち去った。特に第二次世界大戦が終わった時に海外から帰ってきた人々、仕事はない、お金はない、その人たちを北海道に送り込んできた。

 人がやってくるという事は、森を壊すという事なんです。森を壊して畑にして食料増産を計った。森を壊すというと何が起きるかというと、災害が起きるんです。森というのは雨が降れば水を落ち葉の下に蓄え、その中では植物が育ち微生物が育ちその排泄物が水に溶けて川に流れる。川に流れると、水生植物や魚、昆虫を育ててくれる。海に流れれば海草や、魚や海の動物を育ててくれる。そうだから北海道は自然の幸が多かったのです。森がなくなっていくと、どうなるのでしょう。北海道では昔ほど海の幸が取れなくなっています。ただ鮭だけは、人工増殖で昔より取れるようになった。おかげで皆さんも安く食べられるようになったと思います。つい、3年前くらいからですね。人工増殖ができたからです。

 しかし、未だに近海にシシャモも入ってこない、ニシンもはいってこない。これは単に、森を壊してしまったからなのです。そのように、一つの体系が壊してしまったら人間が生きていけないということを、アイヌは知っていたんです。生物が生きていく、地球上のものが生きていくには、一つの「まんまるい輪」でなくてはいけないんです。そのまんまるい輪を人間は平気で壊していってる。そもそも自分たちが力が強いかのように、何でも支配できるかのように...。それをはっきり証明しているのが、北海道だと思います。

 ですから皆さん、今度北海道に訪れるときは、そのようなことを頭に入れて北海道を見て下さい。広々とした北海道、見渡す限りの草原は、明るくて確かにいいかもしれない。でもそれは我が勝手に、自分の思いで人間が作り出したものなのです。

 幸いに、リゾート法が無くなったからいいようなものの....。人間が木を切り倒して、ゴルフ場を作った場合、ゴルフ場というのは恐ろしいのです。もしゴルフ場を経営されている方がいらっしゃったら申し訳ないのですけど、私たち百姓からみてもゴルフ場というのは非常に恐ろしい。ゴルフ場には、虫がいないのです。あれだけの草地の中に、虫がいないというのはおかしい。それはなぜかというと、ゴルフ場では少なくとも週に一度は殺虫剤が散布される。それでも死なない場合はガス状にして、土の中に散布している。ゴルフ場だけで終わればいいのですけど、皆さんよく考えて下さい。ゴルフ場は山の上にあります。雨が降ればそれらは水に溶けて、湧き水になって小川に流れ、皆さんの生活の場に入り込んでくるのです。その水を、みなさんは知らないで飲まされている。

 話がそれてしまいましたけど、北海道にやってきた人々は北海道の自然の幸がどうしても欲しかった。戦後の人口流入による食料増産、その後はリゾート法によって森は壊されていったのです。それが何を残したかというと、少し雨がふれば洪水が起こる状況を作っていった。畑が水に沈むのです。九州でも五木のダム問題、子守歌の里五木村が今でもダム建設でもめています。皆さんもテレビでごらんになったかと思いますが、その五木の里も数年前台風でものすごい数の木が倒されましたね。そのすぐ後、私はあの土地を歩いてみました。木の倒れているところ、土砂が流れているところはどんな所であったか。殆ど人間が植えた、杉・檜の山です。私が歩いた範囲では、昔から自然に任せている森、木がバランスよく自由に育っている木々は倒れていなかったのです。

 ですから、皆さんの住んでいる土地を守るためには、その土地、その空気、その気候ににあった植物が自由に育つのが一番なのです。それを人間が勝手に、これがいいあれがいい、これがためになるんだと、それだけを植えてしまう。花粉症だってそうですよね。昔なんて花粉症なかったんですよ。人間がお金になるからといって杉・檜ばかりを植えるから、ひとつだけ多くなるから、こういうことが起きてしまう。アトピーに関してもいえることだと思います。私は現在53才、終戦の翌年に生まれています。私が小さい時は、アトピーなんかなかった、聞いたこともありませんでした。戦後の食糧増産の際使われた農薬が、私たちの体に蓄積されている。その体から産まれてきた子供たちは、なにかひとつ抵抗力を失っている。それがアトピーではないかと考えますが、これは私の勝手な判断です。特に百姓をやって農薬を使っているから、感じるのですが。

豊かな北海道に人々はやってきて、アイヌ民族をなきものにしようとした。では、アイヌ民族が抵抗しなかったかというと、抵抗はしています。しかし、アイヌ民族の使う武器といえば、木で作った鑓や数十メートルしか飛ばない弓矢です。また兵士の数でも日本には及ばない。そうして負けていった。遠い昔にはアイヌは中国に行き元の軍とも戦ったことがある、それだけ外国と交易していた民族ということなのですが。

 残念なことは日本はアイヌ民族に対してだけに、侵略を行ったわけではないということです。日本は、海外侵略しています。台湾や朝鮮半島を侵略していってます。その時何を行ったかというと、アイヌに対してやったことと同じ事をやっている。その土地に根付いた言語・生活・風習を禁じ、天皇を崇拝させ、日本文化を強要しています。日本が幸いにも、戦争に負けていたからよかったんですね。日本が戦争に負けたときに、アイヌ民族に対しての間違いも正してくれればよかった。そうしてくれていれば......私が今ここで皆さんの前に立って、お話する必要もないわけです。

アイヌに対しては明治4年に、生活や風習、言語を禁じております。そして、明治32年にはどうせ今に滅び、滅亡する民族であるがうんぬんという文脈で、帝國議会の中で旧土人保護法という法律を制定しました。その旧土人保護法、3年前まで法律の中に存在していたんですよ。おそらく皆さんはこのようなことを知らないと思います。旧土人保護法....日本政府もすごいですよね。「土人」の上に「旧」までつけるのですから。見事にアイヌ民族の生活風習を禁じました。いかに数が多いから、力が強いからといって、一つの民族を完全に消し去ることはできません。一つの民族の精神、心というものは、つみとれるものではありません。それが証拠に、皆さんの前で私たちワークショップをやったり、こうして私が話してる。それが証です。

 日本政府は明治34年に旧土人教育規定というのを作って、アイヌの子供たちを集めて日本語教育をしてきました。これは21年続きました。大正11年に廃案になっています。廃案になった後は、同じ日本国民として日本の義務教育を課せられている。でも今になって不思議に思うのは、私は日本国籍を持つ日本人、日本人の中のアイヌ民族です。日本国籍を持つ以上、そしてアイヌ民族として独自の文化を持ち、独自の言語を持つ民族ならば、義務教育のなかでアイヌ文化と言語を学ぶ権利があるはずです。教えられて当然なんですよ。ところが未だに行われていません。不思議です。アイヌだけでなく、ギリアークの人々、在日の人々も同じです。日本国内で生きている限りは、義務教育の中で自分たちの文化や言葉を学ぶ権利があるんです。でもそれを認めたくないから、単一民族国家といっているのでしょう。単一民族といってれば政府は非常に楽なのです。皆さん同じですよ、同じ民族ですよ、何も文句言う必要ない、みんな同じだからいいじゃないか....パッと聞くとかっこいい言葉にきこえますよね。でもそのことが数の少ない人、弱い人をいかに苦しめているかということです。いかにその人たちの口を封じているかということです。

  このような訳で、私たちの先祖の文化や言葉はほとんど残っていない。幸いにも私たちの村、500人程度の小さな村ですが、7割以上がアイヌ民族の血を引いているということで、かすかにも文化や風習を受け継いできたのです。かすかにも民族としての誇りを持っている人がいる村です。村全体であるとはいえません。私のように堂々と名乗っているのはほんの一握りです。皆さんの身近には同和問題があると思います。それを思い出してもらってもわかると思います。同和の人が「私は同和である」と堂々と言わないのと同じ事なんです。

 こういう経緯の中で、二風谷にダムを造るという話が持ち上がった。1969年ですから、今からもう30年前ですね。日本列島改造論、田中角栄さん、とんでもないことしてくれました。もう破綻してしまった計画ですが、苫小牧の勇払平野に日本最大の工場地帯を作ろうした。ではその工業地帯を作るにはどうしたらいいか。水はどこから持ってくるか。沙流川から持ってこようと...二風谷を流れている川です。北海道で一番長い川です。その川は私たちアイヌ民族にとっては主食を供給する場所であった。

 主食というのは、皆さんはアイヌ民族は熊と生活し、熊や鹿を食べているとお思いでしょうがそれは観光のキャッチフレーズにすぎません。先ほど申し上げましたように、アイヌの武器は2、30メートルしか飛ばない弓矢です。そんなに簡単に熊や鹿が取れるわけはない。一番手軽に、一番大量に取れるのが、この川の魚です。鮭です。鮭は早ければ7月末、遅くとも8月には産卵のために川を上ってきます。その時期から10月、11月まで産卵のために上ってくるのです。その鮭がアイヌにとっては主食だったんです。ですから私のお祖父さんは、「自分たちが小さな頃は囲炉裏に鍋をかけて、それから川にいって鮭を捕って帰ってきても、まだ鍋は煮たっていなかった」と言っていました。川底の鮭は腹をすり、川面の鮭は日焼けするという言葉があるとおり、昔は大量の鮭が川を上ってきていたのです。一回に一トンも食べるわけでない。一匹の鮭は、4、5Lあります。2日や3日、一つの家族が食べる分には充分です。その主食の鮭、早い時期には本当に食べる分しか取らない。11月になって雪もちらついてくると、落ち葉が全部落ちて茶色の大地になります。その頃になって始めて、大量の鮭を捕ります。というのは、鮭は産卵を終えると全部死んでしまうのです。つまり、産卵の終わった鮭をその時期になると捕り始めます。捕ってきた鮭を開いて、軒下に干しておきます。そしてある程度乾燥すると、囲炉裏の上の棚に置いておく。そうすると、黙っていて薫製ができるわけです。薫製にしてまえば、何年でももつ保存食になります。

 産卵を終えた鮭、ともすると川いっぱいに死んでいるんですよ。その鮭をいただいてきて、主食としている。それを...日本政府、それさえも捕ることを禁じたのですよ。世界にいる先住民族の中で、主食を捕ることを禁じられたのは、恐らく日本にいるアイヌ民族だけでしょう。殆どの先住民族は、売ることはできないまでも、食べる分の主食を得ることは許されています。ところが私たちアイヌにはそれが許されない。言い換えれば、皆さんの主食はお米ですよね、それは「明日からおまえたち米は食べてはだめだ」といっているのと同じなんですよ。それをアイヌに対して、やってくれた。それは、人間のやることですか?どうせいつかは滅びる民族だから、という日本政府の考えなんでしょうが。

 そういう経過のもと、戦後の山の崩壊があり、そして日本列島改造論・苫小牧工業地帯創設の名の下に、私たちの村にダムを造る計画が持ち上がったのです。その計画に私と父と、萱野茂さんが反対の声を上げたのです。私の父の言葉を借りると「日本政府は、今まで一度たりともアイヌ民族に耳を傾けてくれなかった。話を聞こうともしてくれなかった。だからこの大型公共事業を盾にして、俺たちの声を日本政府に届けたいんだ。」そう言っております。そう言ったなら最後までやってくれればいいのですが......92年に亡くなってしまいました。このことを手がける前に「こういうことをやりたいんだけどどうしたらいいか」と相談された際、私も気楽に「死んだら、引き受けるよ」と言いました。しょうがないから....というのは嘘で、私も本当はやりたかったんですけどね。親父さんがやるっていうのに、親子でそんなことやってると生活成り立ちませんから。最後までやってもらおうと思っていたのに、勝手に死んでしまった。

 日本政府にアイヌの声を届けたいと、まずは土地収用委員会に異議申し立てをしました。でも、この収用委員会に異議を申し立てても、何が行われたかというと、親父と萱野さんが1時間の制限付きの意見陳述。そして委員会が現地調査だといい3時間、何百平方メートルの土地が沈むのにたったの3時間来て、そして強制収用となりました。強制収用採決が決まった段階で、萱野さんの知り合いの弁護士の所に会いに行ったのです。

 「どうしてもっと早く相談にこなかったのですか。いまからじゃもう遅いですよ。でも私たちは応援します。それはなぜかというと、非業だからです。しかし、この裁判は日本国内ではきっと負けるでしょう。だけれども日本の人々に少しでも事実を知ってもらうために、やりましょう。」ということで、始まりました。

 幸いなことに、この裁判に関わってくれた弁護士がのべ15人です。途中で2人ほど亡くなっています。まぁ、それほど長く続いた裁判だったわけですが。全員、無償です。弁護士たちから食事をおごってもらったことはあるけど、私たちがおごったことはなかったなぁ。かかったお金といったら、裁判所に提出する印紙代くらい。8年間の裁判の中で10万円くらいでしょうか。1時間2万円もとられる弁護士の人たちを15人も使って...、こんないい裁判まだやりたいのですが。これは冗談ですけど。(笑)

 弁護士の方々が無償で協力して下さったから、できた裁判です。最初から、勝つはずはないとわかってスタートした裁判。この裁判の中で、私たちの歴史的事実、そして民族としての文化、つまり私たちには民族としての誇りがあるのですよ、ということを訴えました。証人に立ってくれた人も全員無償です。建設省における参考人意見陳述として、もと北大教授・吉崎昌一さん。皆さんよくご存じかと思いますがジャーナリストの本田勝一さん。私たちアイヌ民族の最大の組織の長であった野村義一さん。そんな人たちが建設省では証人に立ってくれました。裁判所では、大阪にある国立民族博物館の教授をしております大塚和義さん、学術の人がああいうところに立ってよいのかよくわからないのですけど。今は小樽商科大学に勤めている相内俊一教授、北海道教育大学岩見沢分校にいる田端宏教授。それは彼らが研究して得た歴史的事実を裁判所で申し立てるというものでした。いくらそのような証言があったとしても、わたしたちに勝因があるとは思えなかった。

  判決がでたのが1997年、3月27日。その日は私は前日から札幌にでて、弁護士といろいろ打ち合わせをしていた。俺たちが勝つことはないのだから、負けたときの抗議声明文を考えよう。そうして声明文の内容を考えて、札幌の町に飲みに行きました。ホテルに帰ったのが11時か12時と思うのに、マスコミってすごいですよね。教えてもいないホテルなのに、どんどん電話がかかってくる。「明日、負けたらどうします?」マスコミも最初から負けると思っているんですよね。「いまどういう心境ですか?」と聞いてくる。「最初から負けたら、なんていうなよな」と思いながら、こう答えました。「もし、裁判所に、人の心があったなら、勝つでしょう。」と。その段階では、それはただの願望だったのです。そうであれば、いいな、日本の司法がそうであったなら、という願望。ただそう思っていただけです。

 判決当日、私たちは負けると思っているから、みんな暗い表情です。

 一方被告は...私たちは土地収用委員会を訴えたのですが「これは私たちに非常に関係が深い」ということで、建設省が被告を勝手に引き受けたんですけどね。まぁそれで終わりかと思っていたら、国まで入ってきた。国は参加員という形で被告になってくれた。これに関しては、弁護人も驚いていました。こういった行政裁判において、国が被告になることはまずあり得ない。普通、国は行政問題に絶対タッチしないそうなんです。なのに、この裁判ではわざわざ国が参加員という形で被告になってくれた。まぁ、裏をかえせば、国はこの裁判に絶対負けたくなかったという、証なんです。負けては困るという証です。それはなぜかといえば、今までの隠された事実、皆さんが教えられなかった事実、それが明らかになるということですから。

 話は戻りますが判決の日、私たちの暗い顔に対して、被告の方はにこにこしていた。裁判の度に思ったんですけど、国、つまり建設省や法務省の方々は東京から出張旅費をかけて前日からやってくる。寝不足なのか被告の一番前の席でコックリコックリやっている。何を飲んでいたのやら、確認したわけではないけれど....アイヌの前でそうやっている。私も税金の無駄遣いを訴えるために、税金の無駄遣いをさせてしまったことになるのですが。

  国は負けるなんて、思ってもいなかった。ただその判決は私たちの予想を覆したものでした。つまり、私が一番求めていた「アイヌは先住民族である」という判決文が盛り込まれていた。歴史的にも、文化的にも、アイヌは先住民族であると、少なくとも北海道における先住民族であると。裁判所としては最大の努力を払ったことと思います。そして、ダムを造るにあたって、その地域の調査を怠った。その地域に住んでいる人々の文化などを一切無視して建設を着工してしまった。だから、このダムは違法である。ここでうち切ってくれればよかったんですけど、ただしこの完成し運用しているこのダムを今から取り壊すというのは、公的損失が大きすぎるということで存続を認めるという判決でした。例えば選挙でいえば、違法行為があっても選挙のやり直しはしなくてよいというのがありますが、それと同じやり方なのです。この判決の場合、実質的には国が勝ったことになります。ダムは残していいというのですから。おまけに判決文そのものには「原告の訴えを棄却する」となっている。「却下する」というのでないだけよかったですけど。

 いろんな人に言われました。「あれだけの判決がでたなら、アイヌ民族としての損害賠償を求めなさいよ。上告しなさいよ。今までの歴史的な償いを国からもらいなさいよ。」と言われました。でも、私たちはそれはやりませんでした。つまり、控訴しませんでした。それはなぜかというと、今までの例からいうと、上にいけばいくほど、国寄りの判決になってしまう。私たちの希望の90%以上認めてくれた、その判決を覆したくない。このまま確定してくれれば、それが残りますからね。そこで控訴しなかったわけです。当時議員だった萱野さんの情報によると、この判決に不服があった国の方が、むしろ控訴したかったそうです。つまり先住民族として認めてしまったことに対して、法務省が控訴したかったそうです。ですが勝った裁判に対して控訴するなんておかしな話ですし、控訴を取りやめたため、この判決が確定しました。

 この裁判の判決文の中に、私が一番好きな言葉があったのです。それは「自分の受け継ぐ文化を、誰をも侵すことはできない」という文でした。これは、すばらしいなあと思いました。これはどういうことかというと、自分が受け継ぐ文化に対して誰も笑ったり阻害できないのだよ、そうしてはいけないのだよ、という意味なんです。一番近いものに例えれば、家のみそ汁の味と隣の家のみそ汁の味は違いますよね、全く同じということありえないでしょ?でもその違うみそ汁の味は、その家の「文化」なんです。お爺ちゃん、お婆ちゃんの代からずっと伝わってきた文化なのです。その家庭の生活のサイクルだってそうです。生活のサイクルは家々によって違うはずです。勤めであれ自営であれ、それぞれの生活はその家の文化なんです。

 私は文化というものは、ひとつに固定されたものでなくて、生活の中で息づいていって変わっていく、それが文化だと思います。ただし、それを誰も妨げたりしてはいけないということ。憲法13条から引用した判決文らしいのですが。

 私はその言葉が、とても好きであったし、またそれがアイヌ民族が第一に望んでいたことです。それは私たちの文化を認めて下さい、皆さんと違ったものを認めて下さい、違って当たり前ではないですか...そういうことなんです。ですから今の日本で一番不思議に思うのは「方言を笑う」ということです。方言というのは、その土地独特の気候、風土、生活から生まれた言葉でしょ?その土地に生まれた人々が、長年築いてきたことばでしょ?どうして、笑うのですか?どうしてそれがいけないのだろう。日本の国には方言たくさんあります。北海道から沖縄まで約2000?Hあり、常に温度差20度以上あるこの日本。それだけの温度差、気候の違いのある日本で、言葉を一緒にして、生活文化を一緒にして...それは無理な話でしょう。それがこの判決文のなかに盛り込まれていたということなのです。だからすごく嬉しかったのです。

  自分の生まれ育った所を誇りに持てるというのは、嬉しかったんですよね。それが判決文の中で述べられ、みんながその内容を理解したとき、「日本が単一民族国家だ」という発言はでてこないでしょう。そして方言を使った人を笑うということもなくなるでしょう。共通語は必要かもしれませんが。

 アイヌ民族が民族としての言葉をもっている、それを奪われた私たちが言うのですよ。皆さんの地区それぞれの方言や、生活がなくなってしまってからでは遅いのです。みんなが助け合って築いていくそうでなければ、本当に楽しい社会なんて生まれないのではないかと思いますよ。

 ダムができて3年たつのかな。ダムができてどういう影響がでるのかなと思ってみていますと、あれはもともと工業用水を目的としていたはずなのですが、いつの間にか洪水予防、発電のためという名目にすり替わっています。確かに、雨がふればある程度の水を止める力はあります。一日3000キロワットの発電、1000戸分の電気量。800億円かけて、1000戸分の電気ですよ。お宝級です。

 ダムの水がどれくらい浄化されるのか見ていたのですが。北海道は冬になると土が凍って、絶対水なんか汚れることはない。だから冬の間は水はとてもきれいなのです。雪解けが始まると、水は汚れだします。雪解けでなぜ水が汚れるかというと、寒さで土が凍ると土の中の水分が膨張します。つまり土を持ち上げる、霜柱を思い出して頂ければいいかと思います。それで持ち上げられた細かい土が、水にとけてさらさらと流れ出す。

 今年は4月の25日から濁り始めて、終わったのは6月21日だったかな。なぜ私はこのように見ていたかというと、ダムができる以前は5月中頃には、川の水がきれいになっていたからなのです。しかし今は1ヶ月近くも長くかかっている。それはなぜかというと、ダムで水がせき止められています。雪解け水でダムに濁った水が流れ込みます。いくらきれいな水が流れ込んだとしても、ダム底にあるのは汚れた水なんですね。少しでも雨でもふればダム内の水は濁ってしまい、いつまでもダムから下流にきれいな水がいかなくなってしまう。そのためにダムができてからは、水がきれいになりにくくなった。

 もうひとつは、沙流川は私たちの言葉でいえばシシリムカなんですが、誰がつけたか知りませんが、読んで字のごとく砂の流れる川。それだけ上流から土砂が流れる場所なのです。上流から落ち葉などの土砂が堆積します。その中では微生物が生まれます。その微生物が生きるには酸素が必要なのです。その酸素は水に含まれているものを使いながら彼らは生きている。ダムにたまった水というのは、酸欠状態になっているわけです。酸欠状態になった水が下流に流れていく。ダムでは上部の水が、下流に流れることはないのです。水圧によって、必ず下部の水が上へ押し上げられてダムを落ちていく。ダムができたために、ダムの下流では常に摂氏7度から8度くらいの水しか落ちていかなくなった。そして冬は、外気より温かくなってしまったために水が凍らなくなった。逆に夏は、水が冷たくなったおかげで、農業には非常に不利な状態になりました。ただ減反政策によって、米を作る人が減りましたから、あまり文句を言う人がいないというだけです。ダムができても、いいことはないなと感じます。

 さらに重要なことは、村の7割以上がアイヌ民族であるということで禁止されてもささやかに受け継いできた私たちの文化は、ほんの100年前までは森で生活していた人々の文化だったわけです。だから、森、川、地形などが変わってしまったら、受け継ぐことが困難な文化なのです。私たちの村の地形を変えられたら、私たちの文化を伝えることを禁止されたことになってしまう。二風谷という、もとの地形が必要なのです。それが壊されてしまった。判決文の中でも「日本政府は速やかにこの事態に対処しなければならない」とあるものの、判決から3年たってもなんの対応策もありません。でも日本政府だって、人間の心があります。この判決文を無視した行動をとらないということを信じています。いつの日になるかは、わからないですけど。

  私はあのダムを「5日ダム」と呼んでいます。萱野茂さんが、毎年8月20日に行っていたチプサンケという川の船の行事をやろうと言いました。アイヌ民族にとって川は食料源でもあり交通機関でもありました。このお祭りは船の進水式のようなものです。木をくりぬいた船、今は博物館に飾られている船を水におろしましょうということになった。ダムに水がたまった年、せめて最後のチプサンケを、ということでダムの水を抜いてもらいました。洪水調整という二風谷ダム....ダムの水を抜くのにたった4日しか、かからなかった。満水状態で、下流に影響を与えずに水を抜くのにたった4日。チプサンケが終わって、水を溜めるのにたった3日。まぁ、4日ダムっていったらあまりに可哀想なので、5日ダムと呼んでいるのです。それだけ洪水調整能力がないダムだということです。もうひとつ、普通ダムというのはコンクリートを積み上げて上から水を流しますね。二風谷ダムは7つの水門があり、その水門の扉を上から落として閉めなければ水が溜まりません。つまり、水門を開ければ元の川に戻ってしまうのです。

 だから、この7つの水門をあげて、このダムを保存してほしい。そして大雨が降って、洪水が起こりそうになったら、門を閉めて洪水調整してほしい。そしてこの二風谷ダムを「負の遺産」として、開発事業やアイヌ民族への歴史的事実に対する負の遺産として、保存してほしいと願います。

 私は農業を営んでいますが、不思議に思うのは、例えば輸入物のグリーンアスパラの場合、少なくとも収穫するのに1日かかります。そして飛行機に乗せるのまでに2日。食物検査で3日かかります。そして市場に出て店頭に並ぶのに1日。つまり一週間かかるわけです。それが、どうしてあんなにみずみずしく、おいしそうに店頭に並んでいるのか。私もグリーンアスパラをつくり、消費者に直に発送しています。つい先日収穫が終わったところです。グリーンアスパラは朝採って、昼頃になるとしなっと柔らかくなるんですね。そんな敏感なグリーンアスパラ。店頭ではどうしてあんなに瑞々しいままなのか。いったい郵送中に何を使われているのか、何を振りかけああいった状態を保っているのか....。よく考えていただきたいと思います。外国から輸入した飼料を食べている家畜には身体的な異常が多く発生しています。それは、恐らく大量の農薬やホルモン剤が使用されているからでしょう。動物だからいいというものでもありません。人間もこれを自らの問題として考えなくてはいけません。本来の生き方を自分たちが守っていかなくてはいけないのです。

 アイヌの精神文化は、まわりに存在するもの全てが神です。動物だからといって、人間より下ではないのです。人間と対等です。人間と同じように地球上に存在するもの全てが大切なんです。そうあってほしいなと思います。

(1999年7月10日)

 

 

 

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