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沖縄の彫刻家・金城実「台風のあとのクワの芽」 

2015年6月28日 知足美加子

(fig.1)吉沢正巳と望郷の牛
(fig.2)木村浩子
(fig3)金城実
(fig4)金城実アトリエ

金城 実(1939年 - )彫刻家。沖縄県浜比嘉島に生まれ、読谷村在住。京都外国語大学卒業後、独学で彫刻制作を始める。沖縄靖国訴訟原告団・団長。



 不思議なご縁で、沖縄の彫刻家・金城実氏にお会いした。

 東日本大震災の後、私は作品《望郷の牛》を福島県浪江町の希望の牧場(代表・吉沢正巳)に寄贈していた。吉沢氏は牧場仕事の合間をぬって、トレーラーに作品を載せ、全国で福島の現状を訴えておられるという(fig.1)。彫刻作品が動いていること、色も雰囲気も変化していることに正直驚いた(寄贈当時は白色)。吉沢氏の道のりの厳しさと、ギリギリの思いを感じた。またこの作品を「同志」とし、共に歩んで下さっていることに心を動かされた。間接的な形ではあるが、彼らが踏みしめていく一歩を、表現の力で照らしていけたらと願う。ちょうどこの日、大学ではソーシャルアートCafeが行われており、「芸術と社会の関係」についての問いが、私の中で首をもたげていた。

 翌日、私は沖縄に向かった。「土の宿」(NPOまなびやー)の臨時総会で、理事である私は木村浩子氏(77才)から呼ばれていたのである。木村氏は障害をもちながら戦争を生き抜いてきた過程で、「福祉は平和の上にしか成り立たない」という信念をもった画家である(fig.2)。彼女は、障害をもつ人が宿泊できる宿をつくった障碍者運動の先駆者でもある。福島の吉沢氏や本田雅和記者(朝日新聞)から、沖縄で金城実氏に会うことを勧められた(後から知ったが、木村氏と金城氏は古くからの知人である)。吉沢氏が沖縄に牛の作品を運んだ際、金城氏がとても喜ばれたそうなのだ。現在、作品の中に黒い網が充填されているが、それは金城氏が読谷村の畑の農業用ネットを詰めたものらしい。ところどころ、沖縄の土がそのままついていた。

 土の宿の総会の後、沖縄県読谷村の金城氏を訪問した(fig.3.4)。アトリエまでの道の両脇には、青々としたさとうきび畑が続いている。敷居をまたぐと、作品が充満する別世界がひろがっていた。何かが土の下でうごめいているような強烈な気配を、各作品がまとっている。ドイツの彫刻家バルラッハやケーテ・コルビッツの作品に通じるものを感じた。そのことを伝えると、コルビッツと魯迅の関係や歴史等をご教示くださった。金城氏は的確な分析力と、血の通った知性をもつ方である。また痛烈な芸術界批判をされる。「日本の芸術界が社会と切り離されたように振る舞うのは、戦争画の責任に向き合わなかったからだ」と彼は言う(藤田嗣治や高村光太郎等)。今まで深く考えなかった視点だったので、ハッとした。依頼者に応えて戦争画をかき、戦争が終われば平和の象徴をかく。芸術がそういった手段になりさがってどうする?思想と魂が介在しなくてどうする?芸術といえば許されるという特権意識はやめてくれ、とつぶやかれた。

 私が最も感銘をうけたのは、クワの芽の話だった。金城氏は台風のあと、いつも樹木を観察している。沖縄では壮絶な台風によって、サトウキビ畑や漁港が壊滅的な痛手をうけることが多い。その嵐の後で最初に芽を出すのは、クワの木である。彼はそこで、打ちのめされたものほど強い再生の力、抵抗の力が宿っていることに気づいたという。

  「生きている今に、何をみるのか。芸術家は自然と歴史から学びなさい。
  人間の想像を超えるような台風の絶望に打ちひしがれても、泣くなよ、沖縄。
  打ちのめされた歴史を背負わされても。
  台風の後の樹木に宿る"抵抗の遺伝子"に気づかないのか。
  思想と魂を受け継ぎ、気位と品格を自覚することだ。」(金城実)

 最後に金城氏は「抵抗を具現化し、絶望を越えることは、これからの君の(学生の)ミッションだ」という言葉を残した。社会と芸術の関係を考える上で、まずは真の絶望に向き合うことが、一人一人に求められているのではないだろうか。ずっしりとした使命と勇気を与えて下さった金城氏に、心からの感謝と敬意を表する。

(2015年6月28日 知足美加子)

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