ニ風谷プロジェクト (アイヌ民族とニ風谷ダム問題)

九州芸術工科大学 知足院美加子(彫刻家)

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   参加者感想 1, 2

回想―ニ風谷ダム」 黒大理石 1999年

ニ風谷(にぶたに)ダム裁判は、アイヌ民族の先住性がはじめて公的な場で論議された裁判だった。ニ風谷ダムは二風谷アイヌ民族の生活文化や信仰にとって大切だった沙流(さる)川のニ風谷村流域に建設された。(計画は30年前に決定)アイヌ民族である萱野(かやの)茂氏、貝澤正氏は(正氏が死去した後、耕一氏が引き継ぐ)ダム計画に対して「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こした。この裁判でアイヌ民族の先住性が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず(1997年)、ダムは施工されてしまった。

 このダムを契機として作られた作品(上図)がニ風谷に設置された経緯を、ニ風谷プロジェクトとして報告する。

1997年、判決文の内容はニュースで取り上げられたが、ダムが施工されてしまったことを私は知らなかった。ダム完成後のニ風谷をはじめて訪れた時、ダムを前にして立ちすくんだ。なにより衝撃だったのは、自分が何も思えないということだった。この土地の生活を回想する要素を、私はかけらも持っていない。忘却するものも持てない悲しさが回向した。
 ダムを交差する意味や・記憶は、何をもって断言できるのだろうか。データーか、言葉か。こぼれていったものが沈殿した空間は、揺らぎによってのみその存在を私に感じさせる。その重さに対する意味づけや解釈は、常に私自身の経験を表すのみ、つまり空しく自分を確認する作業に留まってしまう。私は最終的に意味づけを放棄し、その前で踏みとどまるしかない。そして事の明確化のためではなく、事の亀裂を身体に刻もうとする。その行為が私にとっての彫刻である。どんな知識も行為もその土地の記憶に触れることは不可能だと知りつつ、それでも揺らぎの中のリアリティへ私の認識は誘われる。創造行為によって、その定まらないズレに力を産出する厳密な一点を確立しようとするが、定点と思われた姿は動的なものに粉砕され続ける。目にうつる彫刻は、断片を何度も繋ぎ合わせた無言の残像である。
 沙流川は形を変えたが、そこに寄せられた記憶や思いまで途切れてしまうのだろうか。断片でもいいから拡散する思いを繋ぎとめる創造行為がほしかった。それは私自身が繋がってきたものを持たず、何もないところから生じたという怖れを抱えているからかもしれない。(私の先祖が受け継いできた文化〔修験道〕は、明治時代に途切れている。私の中には明治以降の近代に対する根深い懐疑の念がある。)
 明治政府はアイヌ民族に対して主食であった鮭の漁を禁止し、強制的な農業政策によって彼らの土地を収用していった。歴史的、構造的差別によってアイヌ民族の生活は困窮した。ニ風谷ダムに反対したのはごく少数であり、大多数のアイヌ民族は土地を手放す選択をしたのである。その状況を引き起こすにいたる歴史的事実こそが問題の中心である。私も無知によってその体制を維持している日本人の一人であり、問いなおし修正していく責任がある。

私は今回のニ風谷プロジェクト全体をアートにも社会運動にもしたくなかった。しいていうならばこの活動は各々が本気で見つめ、さらに意味を限定しないまま考え続けるための装置だった。変革でも闘いでもなく、まず実感として気づくために動いたのだ。活動が切り取った様々な思いと関係性そのものが、現実の一断面である。私にはその残像を文字として固定する能力はないが、ある人物の意思を伝えるためにこの場を借りようと思う。
 私は当初作品をダムに沈めたいというコンセプトをもっていた。水抜きの度に作品が現れ、破損を重ねて裁判からの年月を感じさせてくれると考えたからである。しかしダムは国の土地であり不法投棄になるということで断念。またニ風谷の人々に対して日本人の私が行動する事についてよく考える必要があった。あきらめていた矢先にニ風谷ダム裁判原告の一人である貝澤耕一氏に出会い、彼からダム横の貝澤氏の土地に彫刻を設置してはどうかという提案があった。後に貝澤氏は「ダムは完成し、裁判は終わったが、それで問題が解決したわけではない。石像をダムについて問い続ける素材にしたい」と語った。

 問題はその土地の空気を吸い、生活する毎日の隙間に垣間見えるものだ。私は彫刻の台座を作る手助けを理由にして、多くの人々にニ風谷に訪れてもらおうと考えた。1999年8月、農業を営む貝澤氏宅の納屋で生活し、援農しながらの設置作業をはじめた。活動内容は、現地で毎日ホームページを作りWebで流した。 彫刻台座に碑文をつけた。

(碑文内容)「遠い昔から,この豊かな大地で生活してきた先住民族アイヌの人々。その事実をだれが変えられるだろうか。貝澤耕一氏(父,正氏)と共に,受け継ぐ文化の大切さを訴えた人々にこの像を捧げる」

この活動に先駆け、1999年7月貝澤氏らを講師に招き、私が勤務するデザイン大学においてアイヌ文化のワークショップ(木彫、刺繍など)と講演会を行った。表象を作り出す日本人側の意識が深まらなければ、事態は改善しないからである。正しいことだけを振りかざしても、人は問題に目を向けるわけではない。(軽視されがちな)楽しさや好意の感情が、深刻な問題にたどり着こうとする力を与えることを忘れてはならない。実際に会い、その人が表現することを受け止め、自ら行為することも、理解の一つの形である。

彫刻台座に碑文をつけた。また1999年10月に「近代化の中のアイヌ差別の構造」(明石書店)の著者である、計良光範・智子氏を招き座談会を行う。その中で観光の問題や、文化の取り戻しや差別について討論が行われた。日本人は原罪としてではなく責任として状況を見つめ、体制や人々の意識にアプローチしていかなければならない、ということが確認された。

 これらの活動は理論をマニュアルとして、あてはめながら動いたものではない。最終的な結論に到達するためでなく、出会いや気づきの中で、変更を恐れず柔軟に対応していっただけなのだ。しかし意味や結論を限定しない寛容さを維持するのは至難の業である。意味や結論を求める人間が多すぎるからだ。関わる人々のそれぞれに応じた答えがあり、そこから始まる、それは多分私がものつくりとして身につけた考え方である。そのような活動のあり方も排斥するほど、知識人は不寛容なのだろうか。
 
 対話がイメージに終始しないためには、実感や必然性が必要なのだ。またカテゴライズされると、人はそれ以外を見なくなってしまう。カテゴライズされないよう注意したつもりだ。このような活動には批判・検証は常に必要だが、単に批判は絶対であるという風潮には疑問を感じる。傷つくことのない安全な場所からただ批判するのはたやすい。批判される対象の内部にいることを自覚しつつ、そこから少しでも納得のいく形を提示することから逃げたくない。結局作り出す側の思索がナイーブにならなければ、人々の意識を左右する表象は再生産され続けるのだ。
 私にとって考えることは立ち止まることである。止まることで受ける抵抗感を体に染み込ませるためには、行為と時間が必要だった。これからも、拾い集めた断片を何度も修正しながら紡いでいく。それを心に納めた上で、一人の人間として得た縁を繋いでいこうと思っている。その繋ぎ目から、わずかに生まれるものが、きっとあるだろう。

 以上が昨年の活動の報告である。論文という形にならないものに関して、発表の機会を与えていただいたことに感謝したい。貝澤氏らがニ風谷ダムを盾にして訴えたかった物語を、できる範囲で私も伝えていきたい。しかしこれからは彼らの生活をかき乱すようなことがあってはならないと反省している。活動の形態などを考えるよりも、出会った人々の事情を大切にし力になれるところは手伝う、ただそれだけである。 (2000年1月11日)

「Traces」国際シンポジウム(1999年12月15日)発表内容