彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

2006年6月/7月

6月21日
胸像大理石ワークショップが一段落したので、樟の端材でカラスを作ることにした。

自宅で仏壇にあげたお米を外に置いておくと、カラスと雀が食べにくる。カラスは山岳信仰では神の使いだ。物事をよく見て分かっている。たまたまカラスと目が合うと、逃げようかと一瞬緊張している。そのピンと張りつめた感じと、独特の愛嬌を形にできないかと考えデッサンする。全体のフォルムは頭に浮かぶが、細部は真っ黒でよくわからない。調べても、図鑑には意外とカラスは載っていない。それほど身近な動物なのだろう。

寒立馬を作った端材を、大学の大型帯鋸で製材する。切った面が美しい。画家・香月泰男が書いたシベリア抑留時代の手記を思い出す。極寒の中で疲労困憊していても、切り出した切り株の小口が美しく時間を忘れたそうだ。美しさというものは、人間を永遠の時間に飛躍させるのかもしれない。

端材の接着はハタガネかゴムバンドを使おうとしていた。すると技官の方がロープを使う方法を教えてくれた。ロープに小割りを挟んでねじって絞める。かなりきいている。石材屋で学んだそうだ。私も勉強になった。

6月22日
寄せ木がうまくいっているようだ。だいたいのフォルムを罫書く。木材は縦方向に繊維が走っているので、繊維を切断するように帯鋸で筋目をいれる。こうしておくと、鑿でポンとたたくだけで、不用な部分が除かれる。実をいうと、このようにキチンと製材した素材で作業するのは初めてのことである。いつもは丸太のままチェンソーでこの作業をし、斜めの面でも落としたりする。仏像を彫っているような、落ち着いた気持ちで作り始めている。

今日は蒸し暑い。一年前の福岡地震の前日もそうだったと思い出す。ワールドカップで睡眠不足の人も増えるだろう。明日は大事に過ごしたいものだ。

6月27日
研究室に久々に樟の香りがして、幸せを感じる。モデリング(付け加える)の仕事とカービング(削り出す)の仕事の違いを感じている。カービングは、ネガティブな形も意識しなくてはいけない。木の中にカラスの動勢や生命力を強くイメージし、不用な部分を取りさっていく。

ミケランジェロが石を彫るときは、水面から像が浮かび上がってくるようだったという。夏目漱石の「夢十夜」という小説に運慶が仁王を彫っている場面がある。「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」というくだりがある。

立体の背後は人間の目では見えない。立体は人間の頭の中(想像力)で組み立てられて、はじめて立体として意識される。逆に形をはっきり想像できれば、どんなに堅い素材を使っても現実世界に形が現れてくるのである。

6月27日
目のあたりに節があり、ドリルで穴をあけ別材で埋める。(痛そうであるが)羽のあたりのスーッとした感じはまだ出てこない。

手前味噌になるが、「知足(知足院)」という姓は「足りを知る」という言葉からきているそうだ。あるもので満足する・自分の不足を知り精進する、など解釈は様々だ。大学が独立法人化になってから、会議内で「予算獲得」「評価」「競争」などの言葉が飛び交うようになった。違和感を感じている。こんなに貨幣中心の思考でよいのだろうか。予算獲得よりも、予算を節約して足るを知る研究をめざしてほしいものだ。

彫刻制作を通じて物事の道理への理解を深め、想像力を肥やしてもらった。培ったものを、他者に還元したい。また自分が表現したもので人に幸せを感じてもらいたい、そんな単純な動機で制作している。小難しいウンチクは性に合わない。雇用中の助手にも来年から任期がつきそうだ。任期がきれたら、そのうち半自給自足の生活を設計してみようかと思っている。

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