「彫刻との対話」 Mikako TOMOTARI >Buck
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「海美(あまみ)の風」

 2003年夏、(NPO交響の森から)「神唄祭」というイベントの記念碑として、奄美の流木で彫刻をつくってほしいと依頼された。しかし待っても流木が届かない。設置場所などの問題で話が滞っているのだという。これも何かのご縁だろうと思い、とりあえず樟(くす)で最初の構想を形にすることにした。

奄美の風がもつ受け入れる強さと解き放つ優しさ。次世代の胎動。異質なものを受容することの意味。命の時間軸などのイメージを念頭に制作を始めた。  しばらくして妊娠していることがわかった。つわりの中、大学の業務も多忙で制作を断念しようかとも思ったが、できる範囲で力を尽くした。最後はお腹の子が力を貸してくれたように感じた。今後妊娠中に制作するという経験は一生ないかもしれない。個人的に思い出深い作品となった。

 その後自宅出産で第二子を授かった。(自宅出産体験記→)奄美設置の話は結局まとまらなかった。その頃ちょうど友人の建築家(石井みき氏)が矢山クリニックの新病棟を設計し、完成間近であった。ここは食養や音楽治療、ホメオパシー(西洋の生薬療法)も組み込み幅広く西洋医学以外の治療法を統合した病院である。建物の隅々まで病める人々への愛情に満ちている。この彫刻の香りと手触りが少しでも人を癒してくれれば幸いだと思い、寄贈させていただいた。(2005年6月)

/2004年国展(東京都美術館)

「ふくろう」

  日和香幼稚園というところが看板を作り直すことになり、看板の上に置くフクロウを作ってほしいと依頼された。園児が作ったフクロウの親ということで、久しぶりに粘土を使う。石膏取りは幼稚園内で行う。園児は興味津々。補強材のスタッフを「鳥の巣みたいだねえ」といいながら丸める手伝いをしてくれる。看板の形の都合で設置が保留になり(施工会社の変更)親フクロウは夫が新しく立ち上げるNPOの郵便受けの上にとまることになりそうだ。展覧会に関係なく、楽しく色もつけたりして「ものつくりってほんと楽しいなあ」とあらためて思わせてくれた作品。

「とも」
実家で飼っているネコである。長女を初めて実家にあずけた時、このネコの存在に助けられた。身近な生き物が、あのときほど神々しく見えた時はない。感謝の気持ちから彫りはじめた。特別な気負いがない自然な始まりであり、それがなぜか嬉しかった。常に自分の中の「本当のこと」を表現することが私の望むところである。それは一見平凡な生活の中にある。これまでもわかっているつもりで、そうではなかったと気づかされた作品。

/2003年県美術協会展

「子守り唄」
「触れる」ことほど、実在感を感じさせるものはないかもしれない。この作品は、鑑賞者に触れてもらうことを前提に制作したものである。
一昨年に妊娠、出産を経験したことで、制作に対する感覚が以前とは 違ってきたようだ。妊娠中は五感が鋭敏になり疲労しやすかった。木彫の香りと質感は当時の心身に落ち着きをもたらしてくれた。この経験から、心に安定をもたらす木彫を産後は作ってみたいと思うようになった。緊張の強い妊婦・産褥婦の方々に触ってもらうことを念頭に制作に取り組んだ。

 木の重量感・存在感を失わないよう内刳り(中を空洞にし割れを防ぐ)はあえてしなかった。背中から腕にかけてひとつの「円」に動勢を集約している。肩、膝など鑑賞者の手がかかる位置はなめらかな曲面になるよう鑿をいれた。
 構図を三角形にまとめることで安定感に配慮している。足を交差させる姿勢は量感を強め、包み包まれる感覚を導き出すことを意図している。胎児であり、何かを抱く存在でもあることを象徴した。

 制作中も母乳育児を続けたため、産後の不調と重なり、肉体的にも時間的にも困難な制作となった。またイラク戦争が起こり心を痛めたが、このような時こそ、次世代への願いを形にするべきだと考えた。完成後、妊婦の方はもちろん子供たちにも触ってもらって作品も喜んでいるようだ。

/2003年国展(東京都美術館)
/突展(福岡市美術館)
/春日助産院寄贈
「対馬」

 対馬産の樟ということから発想した作品。大らかな海風を受けてきた記憶を素材に感じた。木の大きさを活かし、堂々とした存在感をそのまま表現した。
 実際に対馬に足を運んだ際、拾った樟の種が自宅で芽吹いた。4年後その苗木を対馬に植樹に行った。
「樹の時間」について深く感じさせてくれた木彫である。
  /1996年国展


「稲佐」

 この作品は奈良の唐招提寺にある如来形立像(頭部・両手は破損している)に感銘をうけて制作したものである。ミロのビーナスのように、失った部分はむしろ鑑賞者が自らの想像力を介入する余地を残してくれる。特に「手」は彫刻を説明的にしてしまう傾向があるため、この作品では動勢に不要な部分を省略した。
 素材が若々しく素性がよかったのでそれを活かし、緑の稲がまっすぐ伸びるような瑞々しさを表現している。
/1997年国展

「初女さん」

 樹の根元は目割れや樹皮の回り込みが多く、木材加工という点からは敬遠されることが多い。この作品はその根元部分を利用して制作している。根と幹の間にあって、樹の重量を長時間支えてきた根元部分には、なにか圧縮された力が宿っている。
 モデルの老女は、岩手県にある「森のイスキア」で料理を通じて人々の心身を治癒する活動を行っている。多くを語らず淡々と料理をつくる彼女の背中に、不思議な慈しみを感じた。樟材の根元部分と彼女の存在が直感的に結びついた。
 あたたかい木肌の風合いを活かすよう、必要最小限に鑿をいれている。手の部分は前15cmほどを切り落とし、接ぎ木して彫りなおした。
 制作後手元においていたが、訪問者の多くがこの作品によく触っていった。人々が触るおかげで磨かれている仏像の足元を目にすることがある。触覚によって対象との繋がりを確認し、安定を得たいという本能がそうさせるのだろう。木彫「子守り唄」を制作したいと考え始めたのは、この作品がそばにあったからである。
/1998年国展
/2003年台湾・韓国・日本R.O.C 木彫展(台湾)
「ばんば」

 この作品は、1t近い荷物をひく北海道の輓馬(ばんば)がモデルである。幼少の頃から馬が好きで、ただ馬をデッサンしたいという気持ちだけで学生時代に北海道を旅した。旭川の牧場でばんばを描きながら、作るなら素材は鉄しかないと感じた。実在感を、形を解放することによって表現した作品。
「回想−二風谷ダム」

 馬の制作から10年たった頃、北海道の二風谷(にぶたに)に違法ダムが建設されたという話を聞いた。アイヌ民族の数名の方がその反対活動をされていた。私は「二風谷プロジェクト」を通してこの問題に関わることになった。旭川に滞在して以来、アイヌ民族のことを意識してきたこと。海外青年協力隊で中南米に赴任し、先住民問題を目の当たりにしたことなどが動機だった。
 
 具体的には次のような活動を行った。○二風谷をテーマにした作品の制作。○アイヌ民族の方々を講師として招きワークショップを行う。木彫や刺繍、染色の実習。伝統楽器の演奏。二風谷ダムに関する講演会○ダム横の貝澤耕一氏(ダム裁判原告)所有の土地に作品を設置。作業の協力者をインターネットで募る。台座の制作過程などを現場から日々Webで公開。○「民族と文化」に関する座談会。(>プロジェクトの紹介)

 実際にその土地の空気を吸い、人と話し、生活することで、問題に対する想像力はより複雑になる。人を動かす「印」としての在り方を、この作品は示してくれた。
  /1999年国展
「輓馬(ばんば)‘00」

 一度輓馬を制作して以来、馬は安易に取り組みたくないモチーフになっていた。
 前年から二風谷プロジェクトを通じて民族問題に関わる様々な人々に出会っていた。その万感の思いを形にしたいと考えた時、ふと輓馬のイメージが心に浮かんだ。
 斜め上に力強く伸びる動勢とずっしりとした重量感を表現。踏み出そうとする前足を強調した。
/2000年国展
「石窟庵仏像模刻」  韓国の石窟庵仏像は、無駄な装飾が一切なく、充実した量感と緊張感のある仏像である。この年は妊娠中であったため、大型の作品に取りかかれなかった。そこで依頼されていたこの仏像の模刻制作を引き受けた。もともと好きな仏像であったが、実際に作ることで先人の絶妙な技と感覚を実感し、非常に勉強になった。
「空」

 一度制作しかけたが、作品にならずしばらく手を付けずにいたものである。育児休暇後、子供をモデルにトルソに作りかえた。
 彫刻は「熟成された記憶」が形になる。この頃は、長女の寝顔の記憶がしみ込んでいた。仕事復帰後、子と離れることがかなり不安だったが、この作品を彫っている間だけはそれを忘れることができた。
 /2002年福岡県美術協会会員展