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講演会「未来につづく道」
第3回 波平 恵美子  文化人類学者
「農と命に関する文化人類学的考察」
大地、生命、農業と芸術の融合による教育プログラム
(九州大学現代GPの一環として)現代GPホームページ

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波平氏

 私は九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)に18年間在職させていただきました。その前に、実は6年間非常勤講師でしたので、24年間九州芸術工科大学とはご縁があったのです(その後、お茶の水女子大学勤務)。そこを辞めて10年半経ちましたけれども、芸術工学部と九州大学農学部との連携のプロジェクトに参加させていただく機会を与えてくださいました知足先生、それから諸先生方、本当にありがとうございます。そして、また何よりもこういう素晴らしいロケーション(講演会場)で、随分いろいろないい香りがしていますけれども、こんなすてきな雰囲気の中で話をさせていただいくことをありがたいと思います。今日は、与えられた1時間ほどの時間を3つにわけてお話しをさせていただきます。

 人類にとって ー人間にとってと言ってもいいのですがー 人間という場合と人類という場合、文化人類学では慣習的に使い分けております。類人猿などという言葉を使いますように、人間の生物的な、生き物としての、猿あるいはほ乳類などと隔絶した存在ではなく、連続した存在であることを強調する場合に「人類」という言葉を使います。一方、猿だとかほかのほ乳類と絶対的に違う存在、つまり、文化を持った唯一の生き物であるということを強調するときに「人間」というふうに言葉を使い分けます。60分を3つに分けると一つが20分なので、最初の20分、パート1は人類にとって農業とはという話をいたします。私は昭和39年(1964年)から農山漁村の調査をしておりまして、現在でも調査を続けておりますが、1964年のころに生きておられた方たちからお話しを伺うことができました。直接の体験として伺った日本の農業といいますと、時代的には明治20年代の話であります。かつての日本の農業がどうであったのかということ。そして特に、1950年代、工業生産が日本の中で大きく割合を占めることになり、産業構造がすっかり変わってしまってから今日までの農業の話。これがパート2であります。つまり、かつての農業と現在の農業が、基本的にどういうふうに変わってきたのかということです。それから、パート3。これが一番重要なことですけれども、現在、ほとんどの人が農業と関わらなくなってしまった。農業というのはイメージであったり、自分が食べている食の安全であったりします。今は円高だから小麦の値段が安いけれど、つい最近までは円高ではない上に、小麦の値段が非常に高騰し日本のパン食とか麺食というのはどうなるのだろう、などということを心配していました。そのくらいのことしか農業のことに関心を持たなくなった私たちが、今後農業というものから何を学ぶのか。これが主眼なのですが、農業というものをどんなふうに知ったり、考えたり、農業というものからどんなふうに未来を私たちが得るのか。農業からしか私たちは未来を得ることができないというのが私の考えなのですけれども、そうしたことをパート3でお話ししてみたいと思います。なるべく、皆様方のご感想とか、ご質問とか、ここには農業のご専門の方たちがいらっしゃいますので「違うよ、それ、波平くん」と言っていただければ、今日、私は大変な収穫があることになるわけです。そのような構成にしたいと思います。

 まず、パート1の「人類にとっての農業とは」というのは、これはどんなデータから話しているのかと言いますと、1つは、考古学資料です。もう1つは本当にわずかなのですけれども、採取狩猟民が農耕するようになっていくプロセスが文化人類学では観察されております。そのほんの一部ですけれども、私は1984年にパプアニューギニアを調査しました。パプアニューギニアの一部は当時、農業と採取狩猟の中間的な状態にありました。農業でもない、採取狩猟でもない、その中間のところで、いったい人はどんなふうに食料を得ているのか。おそらく縄文後期の人たちや、今から5〜6万年前の人たちは、こういうふうにして農業を始めたのではないのかというものを見ることができます。そのようなデータから、人類にとって農業とはという話をしたいと思います。

 人類にとって農業とは。これは、画期的であったということは文化人類学の本にも、歴史の本にも書いております。ただ残念なことにこれらの本において、人間にとって画期的であった、というときにイメージされているものは灌漑用水を使った農業なのです。つまり、非常に組織化された労働力、あるいは命令系統(命令する側とされる者)、政治権力が成立した中での農業のことをいっているようです。けれども、農業のはじめはそうではありません。天水を使って灌漑用水とする場合もありました。これは山口県の調査地で、棚田が非常に発達した、下から上まで千枚あるとかつていわれた大棚田地帯を調査したとき、観察すると、棚田とワラ束・板切れなどで天水を灌漑用水にすることは可能なのです。そうした、非常に初歩的な灌漑用水もあることを考えますと、農業というのは、何万年かかけて徐々に、徐々に発達したものであったということが分かります。

 非常に初歩的な農業であれ、中国あるいは古代エジプトで見られるような大灌漑設備を持った農業であれ、人類にとって大きな意味は何かといいますと、それは予定を立てることが必要である、予測をすることが極めて必要であるということ。そして、先のことを考えて今やるべきことを決める。これは、私たちの今の生き方そっくりなのです。つまり、今何をしなければいけないのかというのは、今やりたいことをやっているわけではないということです。今やっていることというのは、それは1時間後かあるいは、1年後かあるいは10年後のことなのか分かりませんけれども、多くの場合、私たちが今やることというのは、先々のことから逆算して決めている。これは、何でもないことのように思いますけれども、決してそうではありません。これは、農業と共に、人間が、決して本能ではないのですけれども、本能といっていいほど文化を発達させると共に、人類から人間になっていくプロセスの中で獲得した能力でもあるし、癖でもあるし、業といっていいのかもしれません。つまり、何度も繰り返しますけれども、今何をやるのかということを決めるときに、今本当に何がやりたいのかということを自分に問うてみるというのではなく、何かのために決める。その何かのためにというのは時間的には将来のためになのです。遠い将来のこともあるし、1時間後のこともあるかも分かりません。これは、農業と共に獲得した能力でもあるし、人類の苦労の種でもあったろうと思うのです。それはなぜなのかと言いますと、農業という行為は、品種というものを選んで、来年はこの種は使うまい、これだけを選んで、これだけから苗を得て、育てて、実を取ろうとか。今のうちに草を抜いておかないとよく育たないだろうとか、あるいは、今のうちに間引いておかないと、という計画を立て行動の予測をし、逆算しながら今の自分の行動、行為、あるいは労力の配分を案配していくと。これは、農業を通して、染み込んでしまった人間の行動パターンであり、思考のパターンであるわけです。これが人間と農業、人類にとって、人類が生物学的なもの、生物的な、生き物的なもの、動物的なものを次第に遠ざけていく発端であったろうと思います。非常に初歩的な農業を行う場合もそうしたことを考えるわけです。

 例えば、パプアニューギニアという所はとても不思議な所で、高いところで2000mを越えるところまで人が住んでおり、下は海抜10メートルかその程度の低地に住んでいます。山の上に行くほど、農業が非常に進んでいます。文化人類学では高地の農地のことをマウントハーゲンガーデンという呼び方をします。農地はフィールズというのですが、英語でガーデンとわざわざいうのです。パプアニューギニアのものをたくさん読んでも必ずガーデンと出てくるので、なぜなのだろうと思っていました。1984年に行ってみますと、まさにそれは庭なのです。雑草1本生えていません。見事に栽培植物を、ランの好きな人がランを育てるようにといいましょうか、ここ(講演会場)はりっぱなハーブガーデンですがあんなふうに農業をやっているのです。女性だけが農業をやるのですが、女性にとって自分の農地というのは自分のすべてなのです。それをきれいに囲いまして、自分の世界をそこにつくるのです。小屋がけをして、2日も3日も畑で働く。畑で働いている時が自分の世界であり、自分の時間であり、その人のプライドのすべてがかかっているような、それはもう見事なものなのです。ところが、それが低地に来ますと、熱帯雨林になっていて、そこでは非常に初歩的な農業が行われています。バナナなどの野生のものの中の特に育ちのいいものだけを選んで、周りの草を取るだけなのです。見慣れないと、どこをどう農地にしているのか分かりませんが、よく見ると、野生のバナナの中で特によく育っているものがあって、その下を見れば確かに草がない。そのくらいの農業なのです。本当にわずかな労力しか使いません。いい品種を選ぼうとか、来年はもっとここに肥料をやって、とかいうことはやりません。恐らく人間が農業を始めるときはそうであったろう。ただし、どんな初歩的な、貧弱な農業をやろうと、いったん農業をやり始めるとどういうことが起きるのかというと、人口が増えるのです。その人口が増えるということが、農業をより高度なもの、より規模の高いもの、ある時期が来ると確実に一定の食料が手に入るように、より計画的に行うようになります。この循環系が起きてくるのです。

 それをよく見いだすことができるのは、日本ではブッシュマンという名で知られている人たちです。カラハリ砂漠にほんの数十年前まで20〜30人のグループで採取狩猟をしていた人たちが、政府の方針で定住して、農耕するようにと強制され、農耕するようになって変化をたどるようになります。その変化をつぶさに見ることができるのです。そうすると、人口が爆発的に増えます。カラハリ砂漠のクンと呼ばれる人々と数十年間一緒に住んでいるアメリカの人類学者がいますが、その人の詳細な記録によりますと、採取狩猟をしている時代、クンの人々は4時間ぐらいしか労働しない。それ以外の時間は何をしているのかというと、彼らは詩人であり、音楽家でもありますので、例えば星についての詩だとか、たくさんの詩を作っているのです。非常に単純な楽器。弓なのですけれども、自分の弓の弦を楽器にしているのですが、限りなくたくさんの詩を作り、たくさんの即興の歌を歌って過ごすというような生活。ところが、農耕になった途端に、同じ人々、同じグループが働くようになる。というか、働かないと農業はやっていけないのです。農業をやったことのない人々ですから、必ず十分な収穫があるとは限りませんので、政府の配給の食糧もありますが、それでも農業を始めた途端に、労働時間が倍ぐらいになってしまうのです。こうしたことを恐らく人間は長い間にわたって、徐々に、徐々に、そういうふうに、変な言い方ですけれど、文化が進んでいったということもできます。忙しい生活。そして、今やりたいことは何なのかというと、常に未来を取り込んだ、将来の時間を取り込んだこと。そういう人生を送るようになったと。それで、さまざまな美しいものであるとか、巨大なものを作る技術だとか、生まれた赤ちゃんはほとんど育つとか、平均寿命が80年とか、そういう結果を手に入れることができた。良い、悪いということは文化人類学では断定しません。こうでしたということで、あとはみんなで判断しましょうということなのです。こうしたことが工業生産社会になりますと、もっと計画的で、しかもそれがワンシーズンなどではありません。今の生活というのは、金融市場では、とにかく秒単位と言ってもいいくらい、刻々と株価とか、為替市場の数字が出てきまして、どこでボタンを押すのかということで大きな得をするか損をするかということになります。まさに秒の単位で金銭価値が生まれてくるような、そんな時代なのです。歴史は決して後戻りをすることがありません。後戻りをさせる方法があれば、選択的に後戻りをさせたいようなことはたくさんありますけれども、歴史というものは、後戻りはできない。けれども、歴史から学ぶことはできるわけです。これは、決して忘れてはならないことなのです。

 NHKスペシャルで、最近非常に面白い番組を放映していました。それは、文字を読むことができない症状を持った人の話です。文字を読むことができないとはどういうことなのだろう。ごく一部なのですが、その人たちはものすごい努力をして文字を読んでいるのです。普通の努力ではとても文字は読めない。文字が読めないということはどういうことかというと、目が見えないわけではありません。NHKスペシャルの請け売りなのですが、部分的にだんだんと脳の機能が分かってきており、私たちが言葉をどういうふうに理解しているのかがわかってきました。脳は未だに音で理解しているというのです。言葉を音でしか理解していない。なぜ、文字を見て私たちが言葉を理解するのかというと、ここが非常に複雑なことなのですが、私たちは文字を見ると、それを一度、脳の中で音に変えているのだそうです。口に出さないだけで、音で認識している。そして言葉として理解する。文字というのは目から入る情報ですね。目から入った情報というのがそのまま文字として理解されているのではなくて、音としていっぺん変換して、それが言語野と呼ばれる脳のところで言語として理解する。文字が読解できない症状の人たちは何に問題があるのかというと、文字が入ってきたときにその文字を音に変える所が非常に未発達というか、眠った状態になっているらしい。人間は言葉を話す動物、言葉を理解し、言葉を話す動物ですが、恐らく言葉を獲得するまでに10万年ぐらいはかかっていると思うのです。しかし一般の人々が文字を読んで、それを言語情報とするようになって、まだ数千年か、所によっては数百年なのです。私たちは人間の文化とはといいますけれども、人間の文化というのは、本当に、テーブルの上に積もったほこりのようなもので、ふっと払ったらなくなるようなもの。その意味では、将来を見据えてしか今の行動がとれないなどというのは、恐らくこのテーブルで言うとこの木組みぐらいまでは行くのかもしれません。私たちが人類という場合、これもだんだんとより正確なっていくでしょうが10万年前からというと、あまり反対する人はいないだろうと思います。そして、その中で農業をするようになって、非常に初歩的な農業をするようになって1万年ちょっと。2万年まではいかない。そうすると、私たちの人類から人間へとなっていく中で、農業というものは大変大きな意味を持ったビックな出来事であったことは確かである。

 つい長々としゃべりましたが、パート2に無理矢理行きます。縄文時代というのが採取狩猟だけやっていたといわれていました。しかし縄文の遺跡がどんどん出てくるようになり、分析技術が進んできたということの方が大きいのかもしれませんが、明らかになったことがあります。非常に初歩的な農業をやってきたことはまず間違いない。そうでなければ、いったいなぜあれほどまでに急速に、縄文から弥生文化というものになっていったのかというのがよく分からない。地域にもよりますけれども、恐らく縄文後期には、パプアニューギニアで見ることができたその辺の草を取って生育のいいものだけを大事に育て、それが枯れようとすると川から水を汲んできて水をやるくらいの農業。そうしたことは、やっていたにまず間違いないだろうと。農業はこうした長い歴史をもっています。

 明治20年代といいますと、皆さん方学生さんにとっては、昔、昔の大昔で「日本昔ばなし」の世界のように思われるかもしれませんけれども、私はその頃をまだ記憶をしている人たちに何十人もお会いしています。私にとっては「日本昔ばなし」でも何でもないのです。それは、かなりリアリティのある話なのです。明治20年代の農業というと、今から考えますと非常に遅れた農業のようでありますが、基本的には明治20年代も日本の江戸時代の農業をやっておりました。その江戸時代の農業というのはおそろしく進んだ農業だったのです。何が進んでいたのかといいますと、一つには非常によく品種改良を行っていたということです。それから、これは本当にわずかなことしかできませんでしたが、病虫害を駆除するための技術も研究されています。例えば、文書の中に藩が鯨油を何百樽も買っているというものがあります。その樽は小さなものではなくて「しと樽(4斗樽)」といいまして、1斗は18リッターですからそれの4倍です。藩がその4斗樽で何百樽も買っているのです。それも随分遠くから船で運んで買っています。大変高価なものだったのですけれども、鯨の脂をうんかの排除に用いました。うんかというのは米にとって致命的な害虫なのです。うんかが発生したときに鯨油を田の水の上にまくのです。そうしますと、その上にうんかがぽとぽとと落ちてくる。栽培法について肥料についてはどれほどたくさんの農業に関する書物が書かれていたのかというのと、驚くほどなのです。研究したものはその土地だけで、あるいはその藩だけで限定されるのではなくて、あっと言う間に全国に版木で刷られて行き渡ることがありました。逆にその藩で非常に大事にしているものは藩の外に出さないというように、種の管理までやっていたわけです。

 日本の農業のもう一つの特徴は、今でもそうですけれども、バリエーションが非常に豊富なのです。例えば付加価値を農業につけようということで、もう何十年も作られていない品種を探し出して作ってみたら大変おいしかったというものは、数倍の値段で売られようになっています。このように日本の農業は、地域限定の品種をたくさん持っているのです。これはたまたまできたというより、大事に育てていたということです。こうした農業を明治20年頃はそのまま継いでいました。昔は農業は勘に頼ってやっていた、という考えをまず捨てていただきたいです。実は江戸時代末期から、日本は台湾や朝鮮半島から米を買っているのです。何も今に始まったことではありません。例えば、江戸奉行所が米を買ってよろしいでしょうかと伺いをたてた文書があるのですけれども、そのように、外国からの米を買って日本の米と競合させないようにするにはどうしたらいいのかなどと、今の農業と基本的には同じような問題を抱えながら解決していった。いってみれば、常に頭を使い、常に努力をしていた。そういう農業をやっていたということなのです。しかしながら日本の農業にとって何がいちばん問題であったのかといいますと、冷害とか、あるいは噴火とか、あるいはうんかの害とかということではありません。日本の農民たちは、それらのことは必ずそこで工夫して、研究して、努力次第で何としても元のレベルに戻していったのです。

 どうしようもない日本の農業の大打撃は何であったのかというと、日本が工業立国になったことなのです。工業立国になろうと国全体、特に施政者が考えたのは、よくいわれるように日露戦争の頃からです。つまり今の新日鉄である昔の八幡製鉄所を造ったときだと、皆さん方は中学の歴史などで習ったかもしれません。それ以前から移行はあったわけですが。軽工業から重工業へと産業の中心が変わっていきます。しかしながら、本当に日本が工業立国になったのは1930年代、つまり日中戦争が始まるころです。これは農民の数からしても、特に農業を支えていたいわゆる篤農家、あるいは豪農と呼ばれる人々が存立できなくなったころだと考えられています。豪農とか庄屋とか、あるいは大地主ということばを聞くと、ひたすら搾取する人々のように考えられています。しかしながら今まで眠っていたか、あるいは無私されていたか。その人たちが日本の農業のレベルを上げていくために、どれほど私財を投じていたかは驚くほどなのです。そういう地主たちを1930年ごろから日本政府は徹底して地主として農業で財産を保持できないような政策をとり、たたくようになるのです。そして、もはや自分たちが農業をやってこれまでのような家計を保てなくなったということで、大地主たちが次第に自分たちの資産を株に替えていくようになるのです。国債だとか株に替えていくようになる。そして、もともと農村から上がってきた利益は農村に返すという循環系が切れてしまったのです。日本の農業、もっとも日本にとって日本の国民、日本列島に住む人一人一人にとって重要であったはずの農業の冬の時代は、日中戦争のころからなのです。徹底して日本政府は農業に対して、冷や飯を食わせたのです。そして、戦後の食糧不足のときに農家は少しばかり闇値で潤うことになりますが、それがあっという間に高度成長経済の中で相対的な地位を下げていきます。農村が本当に潤って「あぁ、農民でよかった、百姓していてよかった」と思ったのは戦後5年くらいだったというのですね。朝鮮戦争が始まった途端に、また農村は経済的にみて不調になっていくわけです。

 こうして、日本の農業はいじめ抜かれたというのが、私が農村の調査をして得た感想なのです。私が調査してきた農村のどういうところを見てきたのかといいますと、部分的な調査をしたのは、大分県の国東半島、熊本県の菊池平野、奄美諸島のさとうきび栽培、日田郡の、今、日田市になっている前津江村および安来市郊外。それから、四国の高知県の幡多郡。本州にいって安来市郊外。山口県はほぼ全県です。そして統合的な調査を行ったのは、福島県の会津地方と新潟県の農山村を調査で回りました。いろいろなタイプの農村で、いろいろなタイプの農業をやっていましたし、いろいろな変化をしています。1964年から今日までに、農村の何が変わったかといいますと、まず専業がなくなった。そして、専業農家がなくなったということはどういうことかと言うと、農業のプロがいなくなったのです。専業農家というのは、農業のプロなのですね。この人たちと各県や市、公的にはほとんど県なのですけれども、農場試験場の指導員の人たちがセットになって、それぞれの地域の農業を活性化もするし、よりレベルの高いものへと持っていった。その専業農家の中には、必ず「何とかの神様」と呼ばれる人たちがいるのですね。そういう人たちには県を越えて教えを請いに来るわけです。実際今でも「こしひかりの神様」みたいな名前で呼ばれている人もいました。「こしひかり」が自主流通米になって値段が上がったときに、この方は秋田におられる方だったのですが、会津地方の人たちはツアーを組んでこの方に会いに行きました。土作りのところから全部見せて「自分は秋田だけどあなたたちは会津なのだからこういうふうに作りなさい」というアドバイスをもらうだけではなくて、実際に作っているところをわざわざ会津まで見に来て「こういうふうにしたらいいんだ」なんていうことを言ってくれたのだそうです。そういう人たちが各地にいました。スイカ栽培の神様もいるわけですね。大根栽培の神様もいる。ネギ栽培の神様もいる。そういう人たちが、もういなくなりつつあるということなのです。専業農家がいなくなるというのは、いろいろな意味で日本の農業のダメージなのです。

 もう一つは、生命観が変わってくるのですね。生命観というと、分かるような分からないような、私はむしろ世界観といったほうが話しやすいのですけれども。つまり、自分を取り巻いている世界というもの、それは自分の身体も含めているのです。自分というものは、実はあるようでないようなものなのですね。身体がなければ自分はないわけですけれども、では身体は自分なのかというと自分であるようなないような。つまり、身体は自分のものでありますけれども、常に客体化されるものでもあります。「右手を出してごらんなさい」と言ったら即座に右手を出せます。「額を触ってごらんなさい」と言ったら即座に額を触ることができる。なぜ、できるのでしょう。それは、私の身体は常に客体化されている。客観化されているからなのです。ところが、その命令を聞いて認識しているものが私なのかというと、残念なのですがそれは脳なのです。情報処理しているのは耳であり脳。脳も身体ですから、私という存在はあるようなないような非常に不思議なものです。脳の動きは自分では認識できません。しかしながら、それがもしできたら「あ、ここが働いた」「ここが働いた」「ここが働いた」というように、もしかしたら分かるかもしれない。私という存在は、そんな不思議な存在であります。自分の身体も含めて、この私という存在を取り囲んでいるものが何であるかということを認識し、その取り囲んでいるものとこの不思議なものである私との関係性をとらえる。それが世界観です。とらえた結果が世界観。

 世界観は常に動きます。状況が変わると常に動きます。例えば、私はもうすぐ66歳ですけれども、学生の皆さん方のときの私と、66歳の私の身体はまるで違うわけですね。身体が違うということは、私は変わっているわけなのです。このように、状況というものは変わると、世界観もどんどん変わります。もちろん、新たにもたらされる情報によっても変化します。例えば、「地球は青かった」なんていう言葉が、なぜあれほどまでに衝撃をもって迎えられたか。皆さんがたにとっては衝撃でも何でもないでしょうけれども、これは初めて人工衛星から地球を見たガガーリンという旧ソ連の宇宙飛行士が地球に送った言葉なのです。宇宙から見たら、一体、地球はどんなふうに見えるのだろう。それまでだれも見たことがなかったのです。彼は人間として初めて見たわけです。そのときの言葉というのは、今聞くとまるで詩のような言葉ですけれども、当時の世界の人々は衝撃を受けたのです。「地球は青い」一体、真っ黒な空間の中に浮かんでいる真っ青な球体というのは、そしてその上に乗っている私というのは一体どんな存在だろうと思った途端に、それは想像しただけで世界観が変わったわけです。

 こうして自分が直接体験しなくても新しい情報のたった一つのフレーズで変わるような、世界観とはそんなものなのですね。こうした世界観の中の一つが生命観。農業をやった人間と見るだけの人間とでは生命観は違うわけですが、以前はその幾らかは共有できたのです。しかし1964年から今日まで44年の間に絶対的に違ってきました。人間が「死と再生」という観念を得たのは農業を通してであると考えられます。農業は人間の行動パターンというものの最も基本的なものを浸透させ、人間の関係というものを複雑にし、権力とか権力支配というものを徹底して人間に教え込んだ。これが、おそらく農業だろうと考えられます。その中で最も大事なものはおそらく生命観であり、生命観を基本とする世界観です。

 そうしたことが、今の日本の農業では無理なのです。今の農業は、種は自分ではほとんど取らずに購入します。苗はほとんど自分では作りません。苗も買います。ですから、今まで生えていたものが種を落とし、地面に落ちて、つまり枯れるということは死ぬことだと。しかしその個体は死んだのだけれども、そこから残った何かが、再び全く違う生命のサイクルというものを作り出していくということを感得することはできないようになっているのです。もう1つは土壌なのです。機械化するということは、どういうことかというと、土に触らないということなのです。土というのはなめろと言うのですね。「土はなめて、味を見ろ」と言われていました。本当に肥料がよく効いたかどうか、酸性土壌になっていないかどうか。ちょっとこれは有機肥料を入れないと、とか。私が農村に行ったときには化学肥料を使っていましたから、この化学肥料はよくないとかいうのをみんななめて覚えるのです。それから、田んぼは裸足で入りますので、粘りけといいましょうか、足を踏み込んだときのぬるっとした感じ。これくらい水を張っていて、この温度なのに足首がここまでしか入らないからもう一度代かき、粗起こしをやるかとか。まだちょっと水が冷たいから土の状態がよくないとか。土壌の状態が常に農業生産を支配するということ、収穫を支配するということがよく分かっていたのです。しかし今は水耕栽培のもののほうが清潔で管理化されて非常にいいということになっています。アグリビジネスでやっている人たちの言葉で代表されるような、まさにアグリカルチャーなのです。非常に人工化された農業になっております。

 とはいえ、まだそんな農業をやっているのか、というような農業をやっている地域や人々もいることは確かなのです。いかに農業が人を育てるかとか、あるいは毎年人に怠るなとか。傲慢になるなとか、去年の経験は今年に使えないぞとか、常に空を見よ、風を聞けということを見ておかないと失敗するということを知る哲学者のような農村の方たちを、私は何人も存じ上げています。その人は「私は何十年農業をやっても、今年はいい百姓やったとは一度として言えない」というようなことを言うのです。「今年は何が悪かったのですか」と言ったら、収穫高のことはあまり言いません。収穫高で勝負するのではなくて、やはりできたものの味なのですね。ところが、農業が市場原理に動かされるようになりますと、味ではなくて収穫量とか見た目になっていくわけです。そうしますと土の味を見ながら、こういう味のものができるだろう、なんていうような、そういう農業をやっていられないのです。そういうことを知っていて、それは大事だと思っていても、それはやっていられないのです。日本の農業はもちろん、まだら模様です。すべてそういうふうになっているというわけではないのですけれども、大部分は機械化されて、非常に管理化された農業をやらなければだめなようになっています。そのように努力しても、例えば、次のようなことが起こるのです。

 これは、山口県の例なのですけれども、皆さんがたはほとんど今それを食べていると思うのですが、「ベニモミジ」というタマネギの品種があります。これは、10年くらい前まではほとんど見かけませんでしたけれども、今、スーパーで売っているのもほとんどそうです。どんなタマネギかというと、完全に真ん丸です。そして、表の皮がきれいな赤い色をしています。皮は一枚むいたら、すぐ下から白いきれいな中身が出てきます。これはいためますと非常に甘みがあって、腐りにくくて、もう本当にたまねぎの優等生なのです。それを大事大事に作りまして、非常にいい値段で売れました。ところで「ベニモミジ」という名称は何か変ですよね。紅葉だけで赤いという意味なのに、さらに紅がついている。そのくらいきれいなタマネギなのです。皆さんがたは多分それを食べていらっしゃる。「ベニモミジ」がいいというので、その農家は水田を畑に直しました。これは大変なことなのです。畑を水田にするのも大変ですけれども、水田を畑にするのも大変。1hの水田を完全につぶしまして、1hを全部ベニモミジにしたのです。おじいさんがまずそれをやっていて、息子さんもほかのいろいろな栽培植物を作っていたのですけれども、米とベニモミジだけにしたのですね。お孫さんは会社に勤めていたのですけれども、あまりにも労働時間が長いので農業をやりたいと言って会社辞めて、珍しく三世代、男が三世代で農業をやるほどの良い収入になったのです。しかし、その値段が確保できたのは、わずか2年なのですよ。なぜかと言いますと、あっという間に北海道でベニモミジを作り始めた。大体1世帯が10h作るのです。そして、山口県のそのタマネギは価格が一挙に3分の1になったのです。やっていられないのですよね。

 農民として農業をやっていると、市場経済というのは、本当に鳥肌が立つほど怖いことなのです。なぜならば、土壌を変えていくところから言いますと、10年計画くらいなのです。少しずつ売って、これはいいと評判取っての末がそれですから。たまたま用事があって北海道に行ったときに、5hくらいベニモミジを作っている人に聞いたら、「いやあ、私たちも利益が上がっていません。中国から入ってくるようになりまして」という、それが、7年前くらいの話です。私は詳しく知っているのがたまたまタマネギなのですが、あらゆるところで起こってくると「本当に農業やってられない」という状態なのですね。それでも、やっぱり農業をあきらめない人たちがまだいます。どうしてそこまでやるのでしょうか。おそらくそれは日本人であったり日本列島に住んでいると、農業をやりたくなるのではないかと。ここ(講演会場)のオーナーの方にぜひお話を伺いたいのです。農業をやりたくなる、そのような環境といいましょうか、そんなものがあるのではないかということが一つです。

 それからいま一つ、日本の農業というのは、先ほども言いましたように、いろいろな品種があるのです。私はアメリカに丸三年、イギリスに丸9か月住んでいまして、旅行もしましたが、それはもう何という単一栽培植物かというくらいに、バリエーション全くないのです。どこで買おうと、みんな同じ味なのです。つまり、いろいろなものを作っていないのです。商品価値がないからなのかあるからなのか、そこはよく分からないのですが。日本の農業に対して農産物にかけるコストを下げなさいとよくいわれます。そして、国際競争力をつけなさいといいます。ですけれども、日本の農業というのは、丁寧に丁寧にやる伝統を少なくとも400年くらい持っているわけですね。もっと前からそうだったのかも分かりません。ですから、果物を栽培しているところ、あるいは野菜を作っているところをごらんになればお分かりのように、今、人件費が最も高い中であれほどの手間ひまかけるとコストを下げることはできないだろう、と思うくらいに丁寧に作るわけです。私は、農業経済は全然分かりませんけれども、日本の農業コストを下げるとするならば、一つにはやはり中間マージンをいかに少なくするかということですね。中間マージンを、そして中間業者をいかに少なくするかと。これは、事故米というものがいつの間にか食品に紛れ込んだときに、信じられないくらい中間業者が米の売買にかかわっているということが明らかになったように、本当に中間マージンが多いということが一つ。

 もう一つ、これは農業をやる側の人たちの機械化の考え方が重要だろうと思うのです。機械化のコストを抑えることができないのは、いろいろな理由があります。いろいろな理由がありますが、絶対的にやれる方法があります。それは、農業機械を作っている会社に儲けさせないということなのです。信じられないほど農業機械というのは高額なのです。それだけではありません。メンテナンスの方法を知らないと、大体5年で壊れてしまいます。ただひとつだけ私は例外を知っている農家があります。すべての農業機械が20年を越えている農家があります。どうやっているかというと、本当にすごいのですけれども、全部機械はシーズンが終了すると部品にばらすのです。機械を買ったときに説明書だけではなくて、ちゃんと工場から取り寄せたすべての仕様を全部もらうのです。ばらして、洗って、磨いて、オイルをつけて、ばらしたまま倉庫にしまっておくのです。シーズンがくると、それを自分たちで組み立てるのです。ゴム製のベルトやなんかは当然のことながら切れるのですが、それは部品としてちゃんと買うのです。「全部の機械が、私のところは20年たっています」というのですが、これだと機械貧乏をしなくていい。東北の方に行きますと、普通に田んぼの中を動いているコンバインは800万円です。これが5年しかもたないのです。そうすると、1年が百何十万円。つまり、1年間のローンが1ヘクタールの米代、1hというと昔の1町分で作った米の純益を上回るのです。はっきり言って、農業機械は儲け過ぎなのです。車の値段ぐらいに下げさせることができれば、少しはいいかなと思うのです。

 最後に、命の問題に入ります。『いのちの文化人類学』という本を1996年に新潮社から出しました。そのいちばん冒頭の話が、「山桜を植える人」というエピソードなのです。この「山桜を植える人」というのは、作り話でも何でもなくて、昭和40年ですから1965年、大分県に国東半島というところがありますが、そこの真ん真ん中に岩戸寺という非常に由緒のあるお寺がありまして、村落が岩戸寺というところで調査していたのです。3月の末だったのですが、大体調査というのはルールがあって夕方4時以降長居してはいけないのです。農業というのは、いろいろな仕事がありますので。「本当に長い時間ありがとうございました」と帰ろうとすると、おじいさんが、山仕事の道具がずらっと並んだようなこんな幅広ベルトと脚半を着けて、どこか出かけるのです。「どこにお出かけですか。こんなにもう暗くなるのに」と言ったら、「いやあ、今からあそこの山に行く」と。すたすた歩けば30分ぐらいのところなのですね。「何をしに行くのですか」と言ったら、「いやあ、山桜の苗を植えに行くんだ」と言うのですね。「今日はちょうどいい。日ごろがいい。明日は雨が降る」とか言って「前山」という言い方は全国各地にあるのですが、自分の家の庭先に立ったときに、真正面に見える山を前山と言いまして、非常に大事にするのです。借景と言いましょうか、庭のうちです。自分の庭のうちなのです。その前山に、あれが山桜、あれはもう50年、あれはもう30年、あれは何十年とか言って私に指して教えます。大体山桜というのは非常に運がいいと100年とか200年になります。大体寿命が50年ですね。というのは、それは回りの木が大きくなって、栄養を取ってしまって枯れるものですから。それで、その回りの木をこの前切っておいたと。あそこに苗を植えておくと、自分の孫が自分の年になったときに、ちょうど私のじいさんが植えた山桜を今自分が見ているように、自分の孫があれを見るというのです。その人の孫が、自分の年になるまで、もちろんその人はもはや生きていません。その人が60歳だとしますと、その人の頭の中には60年後があるのです。50年後があるのですね。自分の未来は、自分の現在でもあるし、今見ている山桜は今から50年前に自分のおじいさんが植えたものなのです。その人は、過去と未来を自分の中に持っているのです。ですけれども、それは関連的なものではなくて、自分の前山に見える山桜というものを媒介として、見ているわけです。それは非常に具体的であるし、非常に神体化されている。つまり、いつも見えるわけですから。「ウグイスが鳴くころになったら、山桜ぱっと開くよね」というような、時間と空間がすべて一体となったようなものなのです。

 農業というのは、先ほども言いましたように、非常にせわしない人生というものを人間に、変な言葉だとは思わないでください、たらし込んでしまったのですね。ろうそくのしずくを型にたらし込むように。人類という種に農業は計画的に行動しろと。それから、常に先々を考えて今を決めよとか言うような、私はDNAということばを安易に使うのは嫌いなので使いませんが、人間の中にたらし込まれちゃったのですね。ですけれども、死と再生、あるいは時間というものを、過去と未来と現在とを一体のものにしてくれる非常に不思議なものの考え方と、それだけではありませんで、それを行動として、人を実行させるような力をも、農業は与えてくれたと考えております。

司会

 もっともっと聞いていたいような気持ちになって、こう時間だといって途切らせるのが本当に惜しいくらい、引き込まれて聞いてしまいました。会場の皆さんの中から、何かこれを機会に語り合いたいというかたがいれば、遠慮なく手を挙げてください。

質問者

 どうもありがとうございました。昔の人は産業としての農だけではなくて、例えば農閑期に何か織物を織るとか、薬を売りにとか、いろいろ全国を渡り歩いておられたわけです。何かもう少し違う見方で見ると当時の人の生き方というのもいろいろと見えてくると思うのです。その辺は何か農村を回られてみて、産業としての農としても面白いのですが、何かそういう生き方、人生の時間の循環のようなことで、いい話だなと思われたようなことがあれば、ご紹介いただくとありがたいと思います。

波平氏

 どれをお話ししましょうかというぐらいたくさん例はあるのですが、日本の織物とか、いわゆる在村産業というものは、特に文化文政期以降非常に盛んに起きているのです。文化文政頃から、農村でも貨幣経済になってきますので、どうしても現金が欲しくていろいろなことをやっているのです。会津の私の調査地などは本当に典型的な水田農村なのですが、実はずいぶんいろいろな産業を在村の地場産業をやっているのです。私が知っているだけでも、木綿織り、木綿染め、なんと陶器まで作っているのです。茶碗まで作っているのです。それから、菜種油です。これでこの村は大変潤っているのです。これらは自分たちが余暇でやったのではなく、貨幣経済のためにやむをえずやったのです。ですから、農業だけやっていれば夜なべというのはせずに済むのに、いろいろなものを見ますと、現金収入を得るためにこの時期非常に労働量が増えたようです。それで農村の中の経済格差がとても大きくなっていて、地主が出てくるというような状態で、一つには決してのどかな在村の農業以外の産業というのは少なくとも文書、あるいは近世史などで書かれているのを見る限りでは、それほど牧歌的というか楽しいものではない。それでは楽しくないばかりだったか、つまり金を得るだけのための農業以外のためだったかというと、必ずしもそうではなくて、先ほども言いましたように農業というのはずっと同じことをやっているだけではないのです。ずっと同じことをやっているだろうというのは、農業を知らない人たちの偏見でありまして、常に何か新しいことをやっている。その、新しいことをやるときにはもう一つは飢饉・凶作の伝承というのはずっとありますから、凶作にいかに備えるかということは常に農業レベルを上げておかないと凶作に対応できません。ですから、標語ではありませんが「備えよ、常に」なのです。そうした中から、つまり危機管理といいますか、危機対応の中から、いろいろな楽しみ事を作っていくのです。

 それはどういうことかといいますと、今、米俵一俵を持てるのが成人男子の標準になっている。「よっとこさ」という唯両手で持ち上げるだけの持ち方ではだめで、肩の上に乗せることができるという、身体技法まで含んでいました。ただ持てればいいというのではなく、つまり1人1人の体力の総和が村落の体力といいましょうか、労働力の総和になります。でも今それがクリアできればいいというものではなく、危機管理のためには常にそれより何割り増しかの労働量、個人においては何割り増しかの体力、あるいは何割り増しかの身体技法がないといけないのです。それが「祭り」なのです。祭りのときの荒業などは、今は本当に見られなくなりましたが、ものすごい荒業をやるのです。また、早食いとか大食いとか、特に「持つ」とか「持って走る」とか。そういう祭りの中で、民俗学だとか宗教学は「神賑(しんしん)」と言います。「神の賑い」と書きます。賑わい。神様を喜ばせる。「オォッ」と、みている神様を喜ばせるようなことが祭りの中には必ず入っているのですが、そこが確かに楽しみ、娯楽でもあるように見えるのです。娯楽にしては、努力がすごいのです。その人たちがそう意識しているとは限らないのですが、見方を変えて客観的にみると、明らかに危機管理なのです。農業をしたことのない人や、農業の家ではなかった人には、農民というのはギリギリいっぱいの生活しているようで、農業がつまらなく見えるかもしれませんが、そうでないものをいろいろな形で埋め込んでいて、それが常に娯楽になるようなものであったようです。

質問者

 先ほど、明治20年代とか、昔の農村を調査されたということですが、その時代のことをもう少し知りたいなというときにお薦めの本はありますか。

波平氏

 明治20年代の調査をしたのではなく、明治20年にすでに農業をやっていた人の話を聞いているわけです。かろうじて民俗学の中に断片的に出てきます。それから、農業史という分野があります。これも本当に研究者が少なくなりましたけれども、農業史の中にはどういうふうに農業をやったかという技術は載っているのです。ただ、個人がどんなふうにしたかというのはないのです。例えば、どういうふうかというと、これは四国の農村で聞いた話ですが、男も女も自分と同じ体重の分だけの草を、夏の間毎日山へ行って午前中3回夕方2回、ですから、40キロの女性がいたとしたら、その人は40キロの5回、200キロを山からからって下りてくるのです。何をするのかというと、それを切って田んぼに埋め込むのです。ですから切って運んできただけではなくて、それを切って、足で踏んで、田の中に入れて、堆肥にするのです。牛の糞を入れて堆肥も作るのですが、それだけでは間に合わないので、生の草は発酵させていませんから、堆肥としてそれほど質のいいものかどうかわかりませんが、時期によっては非常によく発酵するとその土地の人たちは言っていました。こういうことを7月8月やるのです。その人たちの中に日露戦争に行った人がいまして、大変だったでしょう、と言いましたら、「いやいや、この村の草刈りに比べたらそれほどでもなかった」って言ったのです。そのくらいの重労働で、今は天国だ、とよく言いました。でもそれは、若者たちが連れ立って、若い女の子と男の子がいて、草を刈るまでの間ほんの少、5分とか10分休んでいいのだそうです。鍬で露はついていますけれども60キロも刈りますから、5分か10分は休むことを親が許してくれる。その間に公然と若い男と女がおしゃべりできるという楽しみがあった。あらゆるところに小さな楽しみを埋め込んでいたことが分かるのです。残念ですけれどもそうしたことが、書いてあるものは私の知る限り、研究書のかたちではどこにもないのです。

質問者

 示唆溢れるお話でございました。先生のお話の中で、農業が一つの大きな循環をあれだけ生み出していたのに、結局それが工業化の過程あるいは、明治以降の近代化の過程でずたずたになってきたということを改めて知るわけですが、私はもう一つ教えていただきたいことがあります。近代を手に入れていった私たちは、実は他者と一緒に生きあうということも、忘れざるを得ない、捨てざるを得なくなる。つまり、ある種の共同性とか、だれかと一緒になって何かをするとか、農業というのはそのいちばん大きなフィールドだったのだと思うのです。近代の呪縛のようなものどうやってもう一度私たち自身は克服していったらいいのでしょうか。逆に農業から克服するようなヒントを与えていただければと思います。

波平氏

 私の今の段階でお答えできるかどうかわからないのですが、先ほど、パプアニューギニアの高地のマウントハーゲンのお話をしました。男の世界と女の世界が隔絶している文化として有名なのですが、男たちは四六時中一緒なのです。大体5歳になると男小屋、メンズハウスなどという言い方をしますけれども、とにかく男の子は4歳ぐらいまでしか母親と一緒にいません。5歳ぐらいになると父親がメンズハウスに連れ出して共同生活をするのです。何をするのも男は一緒なのです。女性はどうかというと本当に結婚するまでの若い間だけで、結婚するとほとんど一人なのです。農業は一人でするのです。そして自分のガーデンといわれるぐらい見事に作り上げた畑の中で、見るとあそこに女性ここにも女性という具合に、ぽつりぽつりいるわけです。3日間ぐらい小屋に泊って、家族と別居してでもやるわけです。その人たちの心の世界というのは、男性からは聞き取りをしているのですが、女性からはほとんど聞きとりをしていないので、実はわからないのです。他のデータなどと考え合わせて、日本の女性も畑で働くときにはものは言わない。一体彼女たちは孤独だったかというとそうではないのです。つまり、私たちは人と人との会話とか集まりがあって満足するとか、寂しさを忘れるとか思いがちですけれども、日本のお歳をとった農家の方からも聞いたのですが、いつでも何とでも話せるというのです。土と植物と。マウントハーゲンの女性たちは本当にプライドが高いのです。どんな時でも。男が暴力的で非常に男尊女卑の社会といわれていますけれども、マウントハーゲンの女の人の威風堂々とした態度を見ますと、あれは、男は女が怖くてメンズハウスで一緒に共同生活しているのではないかと思うくらいに、すごいです。あれだけの畑を作ること自体すごいですし、人間は人間がいないと寂しいという考えがいかに狭いか。

 私は『いのちの文化人類学』の中で書いている、自分が好きな話のもう一つなのですが、南北アメリカ、すべてではありませんけれどもインディアン、南米ではインディオですが、ある人々が、アニマルメイトを持っているのです。アニマルメイトというのは信仰でして、先ほどの世界観なのですが、自分が生まれた時に自分を取り囲んでいる自然の中に、動物が一匹一緒に生まれるというのです。その人(動物)と自分とは生命が一緒なのです。自分が病気をした時はアニマルメイトが病気をしたから自分も病気をする。だから自分の病気治療をしただけでは治らないので、アニマルメイトを治療するために供物を持って、山の主というアニマルを全部支配している山の神のところに行って、どうぞ私のアニマルメイトの病気を治してやってくれと。つまり自分の治療とアニマルメイトの治療と一緒にしないといけない。アニマルメイトというのはレベルの違う存在でありまして、狭い世界で小さなグループですから絶えず葛藤があるわけです。決して和気あいあいではない。嫉妬もあれば競争もあれば妻を取られたとかということはしょっちゅうあるわけで、そういう死ぬか生きるかという時にはどうするかというと、グループから離れた場所に行って、アニマルメイトに魂で呼び掛けるというのです。そうするとアニマルメイトは必ず、どうしなさいという答えをくれると信じられています。自分が死ぬときはアニマルメイトが死ぬというふうに、全く運命を共にする動物がいて人間の言葉は話さない、人間の姿ではない。自分は人間の空間に住んでいるけれども、山に住んでいるという存在を。本当に悩んで自殺しようかどうしようかというようなとき、あるいはあいつを殺そうかというようなときには、山の中に入っていって、何日間か座っていると、幻覚なのでしょうが、必ず、アニマルメイトが出てきて、こうしなさいと魂に話しかけるという信仰があります。そうした、日本の庭師などというのは、石にも木にも呼びかけて答えを得るようなそういう世界を持っているのだと思います。

質問者

絶対化しない、相対化するには素晴らしい世界ですね。ありがとうございました。

中司先生

 今日は皆さんと一緒に一受講生として、先生の非常に深い洞察をお聞きし、本当に勉強になりました。

 まず、第一の灌漑用水、これが日本だけではなく農業を変えたのだと。これは本当にそう思いました。先生がお話になった400年前ぐらいから(この地方では250年ぐらい前から)灌漑において芸術的な大変素晴らしい農具が使われておりました。「踏み車」というのですが本当に優れた農具です。

 農作業体系についてのお話についても考えさせられました。私たちはいつも農作業というのは体系で考えようということを言っているのです。収穫するにしても、次の作付けをどうするか。草を刈るにしてもこの草をどうするかというのを常に、後作業前作業を考えてやっているのです。この思考は予測とか予想、経験に裏打ちされたものだと思うのですが、その農作業体系への思考が今消えてきているのです。

 次に、江戸時代の農業というのは素晴らしかった、強かった、進んでいたのだというお話ですね。正にそうなのです。ここ(福岡県)は土鋤きを中心とした筑前農法が発展したところなのです。これは素晴らしいものです。この筑前農法において代表的な林遠里氏の展示会を計画しています。筑前農法の勧農社からは、優秀な農村教師が600〜800人程育っていきました。勧農社の『勧農新書』には宮崎安貞や貝原一軒、横井時敬など様々な知識人が名を連ねています。筑前農法は種や土を「生命」として扱う農法です。その農法が途切れたことは非常に残念なことです。

 「山桜を植える人」のお話にも大変感銘を受けました。我々は自らをこえたタイムスパンと命の中で農業を見てきたのです。そのことをこれからも大切にしていかなくてはいけないのだ、ということを身にしみて感じました。どうもありがとうございました。

10月24日18:30〜

波平 恵美子(なみひら えみこ)

1942年、福岡県生まれ。元・日本民族学会(現・日本文化人類学会)会長。お茶の水女子大学名誉教授。文化人類学専攻。九州大学教育学部卒業。テキサス大学大学院人類学研究科(1977年、Pf.D取得)。九州大学大学院博士課程単位取得満期退学。佐賀大学助教授、九州芸術工科大学(現・九州大学)教授、お茶の水女子大学教授を歴任。

日本文化論(日本民俗学)における「ハレ・ケ・ケガレ」という三項対置の概念を示した。主な著書に『病気と治療の文化人類学』(海潮社)『ケガレの構造』(青土社)『脳死、臓器移植、がん告知』(ベネッセ)『病と死の文化』『日本人の死のかたち』(朝日選書)『いのちの文化人類学』(新潮選書)『暮らしの中の文化人類学(平成版)』(出窓社)、編著に教科書として評価の高い『文化人類学』(医学書院)がある。

 

九州大学は、地域の人々と関わり風土を慈しむ心を養う学生教育プログラムを始めました。自分が生きる土地のものを食べる「地産地消」は、単に健康のためだけではありません。温暖化や世界貧困などの社会問題に深く関わっているのです。「地産地消」につながる世界的社会問題や文化的背景について学び、未来につづく道を共に探しましょう。

現代GP(Good Practice)とは、優れた大学教育プログラムを支援する制度です。九州大学・現代GP「地域環境、農業活用による大学教育の活性化(大地、生命、農業と芸術の融合による教育プログラム)」の一環として3回の講演会を行うことになりました。次世代のために、心を見失った物質中心の社会システムを改善し持続可能な社会を取り戻さなければなりません。そのためにはまず温暖化や世界貧困を生み出す社会のあり方に目を向け、それらが私たちの「食」や「地産地消の農業生産」に結びついていることに気づく必要があります。受講者自身が問題を主体的に考え、創造性豊かな提案と行動する力を養うことを目標にしています。大学生と、地域の方々が共に学ぶ新しいプログラムです。

→参考:未来につづく道「橘の響き」「命の根」

九州大学大学院芸術工学研究院 知足(ともたり)美加子

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