彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

1月7日

2008年の始めは一面銀世界だった。正月の英彦山は積雪55cmにもなった。初めての雪かき体験に、子ども達は大喜びである。カマクラまで作っていた。雪は音を吸収するらしく、静けさに静けさが積もるようだった。

 温暖化(物質中心主義)、世界貧困(債務の問題)、新型インフルエンザ(肉食偏重による動物虐待)など今年は問題が山積みだが、きっと人間の良心に従った行動が各地で起こるはずだ。千日行を行った山伏さんが2000年に英彦山権現の霊媒を行い「2008年〜2010年に得体の知れない病気に注意せよ」と言われたそうだ。それがH5N1型インフルエンザでないことを祈る。

現代GPという文科省からの予算が中司先生の取組におりることになった。(来年度から3年間)「大地,生命,農業と芸術の融合による新教育プログラム創出に関する調査・ワークショップ」として糸島地区の方々とプロジェクトを行うことになった。ハーブガーデン・プティール倶楽部の小島さんが協力してくださることになり年末にミーティングがあった。3月にアートプロジェクト「未来につづく道  ー土を感じて歩こう」を行う予定である。→プロジェクトのコンセプト

1月8日

 先週末に博物館に「木喰展」を観に行った。木喰は56才から旅にでて60才を過ぎて木彫に取り組んだ。90才に作った白鬼など、木喰にしか作れない愉気に富んだ独自性があふれていた。私も歳をとったら、木喰のように人の心にあたたかいものが流れ込むような小さな作品を作ってみたい。展示会場が暗くハイライトが強すぎて、木喰独特の穏やかな魅力が半減していたのは残念だった。自然な間接光が木彫を一番美しくみせると私は実感している。

木喰の書もおもしろかった。字の輪郭をとがらせて中に梵字をデザイン化している。他の書にも押されている3本指の左手印も謎だ。解説では数回に分けて3本指印を押したと書いてあるが、私は木喰が本当に指を失っていたのではないかと思っている。3本でも鑿は握れる。右上から左下にかけてのラインが強くでやすいのもそのためかもしれない。このような慈しみは、(指でなくても)何らかの葛藤や孤独を抱えながら利他愛に生きた人からにじみ出る。

1月9日

 

 毎年冬に大きな作品を制作するので、今年の1月の体感温度は確実に違うと感じる。夏はいかほどの暑さかと想像しながら彫っている。

 明朝、目がさえたので『チョコレートの真実』(英治出版)という本を一気に読み上げた。キャロル・オフというジャーナリストがカカオ産業の暗黒の部分を誠実に描き出している。カカオの実をとるために虐待の中で働く子ども達。彼らはチョコレートを食べたことはない。(『奴隷制ーその全容を知る』(2000年)というドキュメンタリー映画がある。カカオより綿花の方が児童労働は悲惨だそうだ。)カーギル社、ADM社という大手穀物コンツェルンの価格操作、利益追求も恐ろしい。生産者の生き血を吸ったようなコートボジアールのカカオ産業の収益は、政府高官や企業とのカカオ・ネットワークの中で闇に消えていく。その全容を調査していたキーフェルというジャーナリストは暗殺されたそうだ。フェアトレードを実現させるには、途上国農民側が膨大な書類と認証費用を用意しなければならない。貧しく文盲が多い農民が自力では行えない場合が多い。

「この風潮を招いている本当の原因は消費者だ。安全性、手軽さ、手頃な値段がある限り、消費者は生産者と原料に関心を持たない。...最優先の目標は生産者にもっと公正な条件を与えることでなければならない。」と、キャロルは言及していた。これほど生産者が虐げられ正当な報酬を受けていないことを、私を含め多くの日本人は知らない。100円ショップに並ぶ商品をみるとゾッとすることがある。幸せを象徴するチョコレート。そこには計り知れない負のコストがかかっている。砂糖、肉、パーム油、コーヒー、カカオ等、過剰摂取によって健康を損なう危険性があるものには、誰かの苦しみが込められているのかもしれない。

 

1月28日

 この時期の大学は入試や卒研、修論関係の業務で落ち着かない。センターから始まり前期・後期試験、AO入試、3年生の進級口頭試験。大学院留学生、帰国子女なども含めると常に試験をしている感じである。学生の学習内容の充実に力を注ぐべきなのだが、教員側は大学運営に追われている感じである。この時期の私は国展のための彫刻制作もあり、毎年時間との戦いである。(3/15までには図録用の作品写真を提出しなくてはならない)加えて今年は、現代GPと付属図書館からの依頼を受けてしまった。夕方以降の時間が使えない子育て中の身はピンチにさらされている。

 附属図書館からの依頼というのは、ダビンチの素描集にある「手のデッサン」を立体にしてほしいというものだ。2月中旬までに2つ制作することを依頼されている。ひとつは石膏、ひとつはウレタンで人肌のようにしてほしいという。それを3D上で動かすそうだ。今は忙しいし、なにより人肌というのは趣味が悪いと意見したのだが、結局実行する動きになり気が重い。また現代GPのプロジェクトの方も(小学校中心に配布する)フライヤーが必要となり卒研指導の傍らバタバタデザインする。ちらし表 /

 やはり自分で自分の首を絞めているなと感じる。手を抜けばいいのに、できない。どの仕事も不足を感じて、完成度をあげたいと欲がでる。自分の性分をよく知っているので、依頼されると気持ちが暗くなる。依頼側は(きっと気楽に)ボタンを押せばポンと出すのがクリエイターだと思っている。その温度差が時に悲しくなるときがある。

1月29日

 「手」の制作にとりかかる。木と針金で心棒を作り、荒付けした。昨晩悩みに悩んで、水簸(すいひ)粘土ではなく「油土」を使っている。石膏雌型を壊して改めてシリコン雌型を作るか(水簸粘土成形)、シリコン+石膏型にしてウレタン鋳造までやってしまうか(油土成形)ずいぶん迷った。今回は復元に近い作業だと割り切り、油土でかっちり作ることにした。

 実際作ってみてダビンチのデッサンはやはり一流だと思う。上手に嘘をついている。(←よりそれらしくみせている)写真よりダビンチのデッサンを見た方が作りやすい。彼が内的に形をつかみ取っているので、成形が楽なのだ。イヤイヤはじめた仕事ではあったが、非常に学ぶところがある。おもしろい。彫刻的には前にのびる動線を出したいと思っている。

 2週間前に、うちの子どもが急に「鍬で畑を作る!」と言いだした。そこで宿舎の共有スペースを家族で耕し、畝を作っている。将来絶対必要になる、と彼女は確信している。環境問題など不安な世情にあって、次世代はしっかり未来を見据えているようだ。ダビンチの素描の立体化も「未来に差し伸べる手」というひとつの作品に仕上げたいものだ。

 

1月31日
 可逆性のある粘土はやっかいな素材だ。木や石は後戻りができない。だから前に進める。しかし粘土はやり直せてしまうのだ。作業していると煮詰まってくる。今回の依頼では彫刻的に省略もできない。油絵や塑像を主軸に制作している作家はさぞ苦しいだろう。

 制作しているうちに、あの素描は「白貂を抱く貴婦人」のためではないか、という思いを強くする。もともとその感はあったが、確信に近くなった。細くとがった指先の感じがまさしくそうなのだ。モナリザの手とはちがう。この絵は木の板に描かれている。手と白貂のしなやかなラインが、木の質感とあいまって透き通るような硬質な感じを与えている。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ【白貂を抱く貴婦人】チャルトリスキ美術館(ポーランド)
 

 

 

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