沖縄(土の宿、珊瑚舎スコーレ)   >Buck

沖縄滞在記 8/3〜8/6(2007)

彫刻作業日記2007年4月・5月/6月/7月/8月/沖縄/9月

珊瑚舎スコーレ
 8月3日に「珊瑚舎スコーレ」というフリースクールを見学する。「学校は思索と表現のための場である」というコンセプトのもと、独創的なカリキュラムを組んでいる。2001年設立、2003年にNPOの認可を受けている。

 ちょうど訪問時に学習発表会が行われていた。印象的だった発表は「聞き取り」といって同級生の話を傾聴し、それを物語にするというものだ。ここの生徒達が互い深く見つめ合っていることが伝わってきた。会場から与えられた言葉をもとに即興・アカペラで曲作りという場面もあった。のびのびとした力強い創造性がいたるところで発散されていて、心地よかった。沖縄戦体験者の語り、アジア諸国の語学、伝統工芸やエイサー、棒術の学習など、授業の組み立てそのものに沖縄の地域性がしっかり組み込まれている。

 夜間部(生徒48人)は、主に戦争時に教育を受けられなかった方々が再勉強しているという。授業料が安いのは、なるべく多くの方に受講してもらうためだ。(年間1万五千円)星野さん、遠藤さんといったスタッフの尽力には敬意を感じる。年間700万円ほどの寄付が必要な状態で、現在は400万円の寄付と80人のボランティアによって支えられているそうだ。

伊江島

 8月4日、沖縄本島北部・伊江島に渡る。沖縄戦の縮図とも言われる島である。平坦な地形を持つために、第二次世界大戦時に日米両軍にとって飛行場の適地「不沈空母」とされた。これが、伊江島の悲劇の始まりである。現在も島の35%をしめる米軍用地は、原爆の投下訓練や、ベトナム戦補給地、ベトナム少年兵の訓練などに使用されてきた。私たちが島を離れる際も、港に迷彩服のアメリカ軍が次々と降りてきた。戦争は終わっていないと感じた。

 沖縄戦は「軍官民共生共死の一体化」という軍部指導によって日本兵による住民虐殺や、集団自決が行われたことで有名である。伊江島は空と海を米軍に支配され、物資や戦力を補給できず、「一木一草を戦力化」として子供、老人、女性に関わらず動員させられた。4706名の戦死者の1/3が民間人であった。

 伊江島は戦後も、アメリカ軍事演習地のために銃剣とブルトーザーによる土地強奪が行われた。阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)著の「米軍と農民」(岩波新書)に、非暴力による伊江島農民の闘いが詳しく記されている。阿波根さんらは、権威や武力でなく「道理」によって相手を説得する。「生産者」としての農民と、「破壊者」としての軍人の闘いだという。お互いに家族を愛する対等な人間なのだ、という彼の姿勢は終始一貫し、その強さの前に「人間としての」アメリカ軍人の苦悩が垣間見える場面も記されている。

 1984年、阿波根さんは「わびあいの里」を開設する。障害者に仕事を提供し(やすらぎの里)、人々が土に親しみ、人間形成・交流の場となる「福祉平和村」づくりを目指した。里には「ヌチドゥタカラの家(反戦資料館)」がある。集団自決の描写や、原爆模擬爆弾、当時の写真や生活用品が生々しく展示されている。戦争とは「自分たちの土地に満足しない人々が他の国のものを欲しがり、そのすべてを奪う行為である」とある。展示品のひとつひとつに身震いしている中、その文言が目に入った。そのあまりのシンプルさに、戦争の愚かさが真に迫ってきた。

 

1945年 戦火に焼かれる伊江村(沖縄県公文書館)
「ヌチドゥタカラの家(反戦資料館)」

 反戦運動の原点である伊江島に、1984年沖縄「土の宿」が開設された。脳性マヒの障害を持つ木村浩子氏が経営する宿である。木村さんは、自由に動かせる左足の親指と人差指を使って、童画、俳画を主に描かれる画家である。この宿の開設経緯については「おきなわ土の宿物語」(小学館)に記されている。彼女の生き様の迫力に圧倒され、読み終わるまで本を閉じることができなかった。

 宿に滞在中、スッと目の前に木村さんが現れた。以前からよく知っている方のような自然な間合いで、「一緒に散歩に行きましょうか」と声をかけてくださった。木村さんは驚くほど速い。小走りでついていく。

 23年間ずっと訪れている海岸だそうだ。いつも一緒に来ていた愛犬トトは昨年亡くなったという。「ここにいると、地球が丸いことを感じるのです」と彼女は語った。空と海との境界が優しく曲線を描いている。ここで久しぶりに虹をみた。

「沖縄に来たのは、平和を訴えるため。戦争に異議を唱えるために、今私はいます。」

「土はすべてを受け入れ、人間の命の源である植物を育ててくれます(土の宿という名の由来)」

「70才になりました。70代はいいよ、全てを受け入れられる」

「障害を持つことで魂が磨かれます。苦しみは今も受けるよ。でもそれは特権なのだと思ってます。」

 海をみながら、ひとつひとつの言葉にエネルギーを注いで語ってくださった。大切にしたいと思った。木村さんは私のHPをみて、赤ちゃんの木彫(触れたかった手に)を気に入って下さったらしい。北九州に行く用事があるので、その時この彫刻が設置してあるエスタスカーサに一人で伺います、とおっしゃる。即断、即行動の潔さにびっくりした。彫刻が人を繋いでくれる。どんな賞よりも、私にとって嬉しい瞬間だった。

*9月1日に木村さんが福岡にいらっしゃった。→浩子さん来福ページ

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