彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

2006年10月/11月/12月   2007年1月/2月/3月

11月1日
今回の素材は以前使用した樟の残りである。大学の工房には置けないので、好意で材木店に置かせて頂いていた。外に置かれていたらしい。溝からしみた雨水によってかなり痛んでいる。木取りを始めたが、途中で底を作り直し上下を逆さにする。今度は前面に腐っている部分があることがわかり、前後を入れ替えるかどうか悩む。今まで木取りで迷うことはあまりなかった。

一晩頭を冷やして、明日決めることにした。スッといかない時は、どのような問題でも「決定を保留」するようにしている。睡眠を経ると心が整理され、よい解答を得たことが多い。葛藤する時間が長くなるのは怖いことなので、すぐ決定しようとしたり、無責任な他者の助言に左右されてしまいがちだ。睡眠は自分自身への霊的な癒しである。

      

11月7日
卒研中間発表などの雑用に追われていた。今朝、急に冬の気配を感じた。工房ピロティに人が遠のく頃、制作に集中できるようになる。

農学部の中司敬教授から寄贈していた木彫「寒立馬」とロバの写真が送られてきた。9月頃、二人の若者が木彫横でキャンプをしていった時の写真だそうだ。九州をロバと共に徒歩で一周し、明日帰還するという。一瞬「ロバ?!」と読み返した。「ロバと寒立馬、互いに気に入っているようです」という文章がそえられていた。

ロバと歩く、樹の下で木彫とキャンプする、そのゆったりとした時間感覚がいい。心の奥から笑いたくなる何かが湧いてくる。彫刻を通じてロバと共にすごしたような、小さなうれしさがあった。

11月8日

今朝パッとみて、前後入れ替えた方がいいな、と感じ最初からやりなおした。いつもはまず中心線をとり、木の中の形を思い描き余計なものを削っていく。今回は傷んだ部分をとりながら、その都度中心線を変更していった。6角形の形体を意識する。作家にとっては細部をつくらない段階の方が魅力的だ。作れば作るほど何かが遠ざかる。しかし他者の意識と通じ合う地平を見いだすには、もがきながら作るしかないのである。

九州大学が産後の女性研究者に対して助成を始めた。その恩恵で、来月愛知に出張できることになった。河合正嗣氏(画家。筋ジストロフィーを患っている)と吉村医院(自然分娩を行う産科医院)を取材したいと思っている。私が今関心を持っているのは、表現と死生観(タナトス)の関係なのである。悲惨な死の映像がメディアを通じて人々の意識を揺さぶり、デス・エディケーションが注目をあびている。政治的圧力(テロ事件表現のタブー視など)を回避し、カルト宗教等への逃避に陥らない突破口を探している。

11月14日
以前制作していた石膏原形を、蝋型ブロンズ鋳造を行っている大野美術工房に送ることになった。桜ライオンズクラブという慈善団体が、日野原重明医師(昨年文化勲章受章)の講演会(12/3開催)の収益で創りたいとのこと。材料費のみのボランティアだ。

梱包し木枠につめる。蝋型ブロンズ鋳造はイタリアでさかんに行われている鋳造法で、原形が蝋(ろう)に変わった時、作家が修正をかけることができる。鋳込んだ後の鋳肌(いはだ)に独特の味わいがある。筑波大学院生の頃初めて経験した。インゴットが鞴(ふいご)の力で坩堝(るつぼ)に溶けた時のオレンジの輝き。注ぐときに手が痺れそうなくらい重く熱かったことを思い出す。造形技術は一歩まちがうと大事にいたるものばかりである。しかし生死をかけてまで創ろうとする、自分のアホさを認めている。

退院後だましだまし仕事をしてきたが、週末ぶりかえしてしまった。「チェーンソー?もってのほかです!」と医師から禁止令がでてしまった。ブツブツ事情を話していると「命のほうが大事でしょうがぁ!」と一喝され、シュンとなった。子供座像の次は横たわる子象を創ろうと思っていた。(バリで象にのったときの感動から)私のように筋力が足らないものは、電動工具に頼らないとできない作業がたくさんある。先人は何度もこんな壁を乗り越えていったのだろう。できない時間をしのいでいくのも、勉強かもしれない。

11月22日
明日の祝日までは木彫を休み、デスクワーク(卒研HPを作るなど)に集中している。今日は春日西中学校の総合学習内で話をする機会があった。就職に関して、社会人から直接話をきくという企画である。私の仕事は、心があれば誰にもできることで特別な事前勉強があるわけではない。質問に答えながら、体験から気づいたことを中心に話すことなる。

 出会うこと、気づくこと、本当の自分の声を見失わないこと。悲しみや苦しみ・怒りも栄養になる。いつか社会的な力が身に付いた時、同じ痛みを感じている人に気づき行動できるようになる...など字にすると月並みな言葉だ。でも心のことを話すとき、子どもたちの目の中に深いものがのぞく。競争社会と、他者との緊張した関係の中で疲れているのだ。(彼らが恐れているのは「バカにされること」。そうされないために先に攻撃するのがいじめだ)彼らの目にあのころの自分がいる。これから降りかかる困難をうけとめ幸せでいてほしいと、親のようにそう思った。

ブロンズ鋳造工房が、行程を丁寧にメールで報告してくださる。自分が創ったものには主体が移るので、まるでその工房に訪問しているような気がしてくる。背景に写る使い込んだ机や工具に、職人の方々の生きた痕跡を感じている。

11月28日
雑用の合間をぬって、久しぶりに木を彫ることができた。樟(くす)の香りをかぐとジンとする。苦労が多くても、やはり彫刻が好きだとつくづく感じた

彫れない間、頭の中で何度もデッサンしていた。最初のデッサンと、手と頭のイメージがちがってきた。マケットや紙で確認するのではなく、直接木取りしていった。きっと人体としてのバランスが崩れている部分もあるのだろうが、毎日接している子供の「感じ」を重視したほうが、自分のリアリティに近づきそうだ。

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