彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

2月5日
 いつも節分が過ぎると、流れが変わる。今年は特にフリダシに戻ったような感じだ。各自の真価がその行動を通じて問われる、そんな時間が始まったのだ。

 ダヴィンチの手だが、最後の詰めが甘い自分に悩む。爪を何度もやり直しながら(ネイルアートのお客さんの手のようだ)心に迷いが生じている。ダヴィンチは細部を描いていない。その省略した形で立体化するべきか、それとも細部を作り込むべきか。

 明日には石膏取りをする予定だ。ウレタン鋳造はその後に考えることにしよう。

2月6日
 午前中は会議だったので、午後から石膏取りである。スタッフ(サイザル麻)を丸める。切り金の位置を昨夜から悩んでいた。指に切れ目が入るのはいやだったが、油土が固いので指の途中に切り金を入れる。細い部分は切り金が刺さりにくく、何度もやりなおす。

 石膏の1層目を刷毛で塗り、2層目は朱墨を混ぜる。割り出しが大変になるが、割れが怖いので、雌型にもスタッフを入れる。

 粘土を掻き出す。指の先が一部残ったので、耳かきのようなヘラ(学生時代にメダル制作用に作った)を使う。型を歯ブラシで綺麗にし、中性洗剤を薄めたものを塗る(離型剤)。泡が落ち着くのを待つ間に、子ども達が保育園から帰る時間になってしまった。続きは明日。

2月8日
 雌型に薄目に溶いた石膏を刷毛で二度塗る。その後スタッフに石膏をつけたものを貼り込んでいく。ゴムバンドで指の方のフタをかぶせ、針金を使って指にスタッフを入れる。今思えば、もったいながって固めの石膏を使ったのが悪かった。イヤな予感がした。空気がはいって、先までスタッフがいかなかったような...。仕事がおおざっぱなのが、私の致命的欠点なのだ。鑿をつかって割り出しにはいる。木彫のノリでつい力が入ってしまう。「ゴキッ」と鈍い音がした。顔に縦筋が入る。薬指がスタッフでぶら下がっている!他の指にもヒビが...。

 久々に自分の失敗で涙がにじんだ。しばらく動けない。指をつめた手を作ってもしょうがない。スタッフや針金を使って修正を試みるがうまくいかない。駄目モトで瞬間接着剤をつけ帰宅。タイムマシンであの行程に帰れたら、やっぱシリコンで型をとっておけばよかった、と後悔がうずまいて眠れなかった。

 翌日、暗い気持ちで研究室のドアをあける。ふとみると、指がついている!文明の力にこれほど感謝した日はない。モデリングペーストで盛り上げ、ヤスリでならしていく。もはやモデリングの作品ではなく、カービングに近い石膏直付けの作品である(笑)。形は油土の時の方がリアルだったが、直付けの方がダヴィンチの素描っぽいではないか、と自分を慰める。

 この日、恩師の退官記念祝賀会があった(油絵の滝先生)。久々に古い友人と出会う。学生時代のバカさ加減を友人たちと話しているうちに、心が晴れてくる。芸術は、禅問答のように解答ではなく思索と体験を与えてくれる。そのことを実感させて下さったのが滝先生だった。

2月12日
 ワークバランスという言葉があるそうだ。土日と6時以降は家族との時間とし方が、かえって仕事効率があがるそうだ。(ダラダラ残業がなくなる)全くそのとおりだ。でも必死に仕事効率をあげて、家でも家事・子育ての重労働があると身が持たないという話もある(笑)。今の私の状況でできる範囲が、仕事というものだと思いたい。

 石膏の修正が終わり、ホッと一息。でもこれからウレタン鋳造が始まる。また破損する可能性大だ。石膏だらけの研究室から、工作工房に作業場を移す。シリコン等に詳しい若い技官さんがいて心強い。油土で土台を作る。あわせる時にずれないように窪みを作っておく。離型用スプレーを塗布後、シリコンをかける。ガーゼをしきつめ、もう一度シリコンを刷毛で塗る。シリコンと石膏外型もずれないように、小さな木片を周囲に置いた。依頼者(図書館長)や鑑賞者は、こんな手間がかかっているとは思わないだろう。

このHPにアクセスしてくれた先輩から励ましのメールが届いた。こんなページを読んでくださっている人がいると思うとありがたい。

2月18日
 手の作業はシリコン型がようやくとれたところだ。アルコールを飛ばすために1週間おく。シリコンが破れているところもあり先が思いやられる。モデリングペーストで修正した部分がシリコンにくっついてしまい、また石膏作品を修正する。ほんとうに何度も修正したので形状を記憶してしまった。修正地獄である。

 修正は石膏だけでなかった。投稿した論文が「条件付き採択」(障害者の芸術についての論考)になったのだ。的確で高い知見の査読内容には深く感銘を受けた。やはり学会に投稿してよかったと安堵した。が、核心をついているだけに修正も難儀だ。文章は生き物で、ひとつ触ると全ての関わりが動き出す。もともとプレッシャーに弱い私に、いろいろ降りかかってくるのはなぜだろう。父がよく「心の鍛える道をお守りください」と神仏に祈っている。心を鍛錬する道は、今の自分のキャパを少し越えた負荷を用意しているらしい。夫と祖母の協力で、昨夜は9時まで仕事ができた。恩師の柴田先生から「作品をみに来る」という連絡が入り、時間まで必死で論文仕事を片づける。

 善ちゃん(柴田先生)登場である。「はよー、くっつけな全体がみえんめーもん。クレーンで高さあわせな。ほら、カスガイば持ってこんね!」とバリバリの博多弁で次々と指令がくりだされる。工房長の津田さんも巻き込まれて、いつの間にか働かされている。学生に戻ったような懐かしい感じである。午後からの時間でダーッと仕事が進んでしまった。スッカリ冷え込んでいた2月だったが、晴れ男の善ちゃんが来たとたん、急に暖かな空気が流れた。やはり先生の人物力は底知れない。

2月22日
 カスガイを中に埋め、千切り(ちぎり)を入れる。千切りとは木材同士が離れないように入れる、チョウチョのような形をした木材である。来週頭は前期入試監督で制作できない。入試監督説明会などで仕事が寸断される。

 ダヴィンチの素描の立体化を依頼した図書館が、全教員に告知をだしていた。芸術工学分館特別展示会「万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの世界へようこそ」と題されている。→HP

 HPに目を通してみてびっくりした。あの手の作品の3D化が「メイン」となっている。しかもダヴィンチの手では?となっている!左利きのダヴィンチが、自分の左手を描くことがあるだろうか?それにあの素描はあきらかに女性の手である。彫刻家・高村光雲(光太郎の父)が弟子を入門させるときは、まず手をみたらしい。手が小さければ入門させなかったという。あの素描の指は力仕事していないと私は思う。パネル用原稿(知足制作)にもダヴィンチの手とは書いていない。

彫刻は触って感じるものだ。ソッと触れるその緊張感がいい。しかし「鑑賞者にも触らせたいのでウレタンでも鋳造してほしい」という図書館側の依頼内容には不服を感じている。(ウレタンの柔らかい質感は品がないと思う)修正しまくった手の痕跡を、鑑賞者に追体験してもらうことは歓迎だが、冷たい石膏作品で感じてほしいというのが本音である。

 

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