彫刻作業日記   >Buck

彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。

11月3日
 石彫の池松先生が10月上旬に個展をされた。(池松先生HP)強靱な精神力をお持ちの先生だ。「いい彫刻はシーンとしたものだ」と神戸先生がおっしゃっていたが、池松先生の作品にはその本質の静けさがある。手の作業にこだわる制作姿勢。石彫の裏側に通した溝まで磨いたそうだ。「自分にはうそつけないからなぁ。」とおっしゃっていた。作品の裏側を彫る時には、ふとこの言葉が頭に浮かんでくる。私の制作は隙と甘さだらけであることを、先生の作品は無言で教えてくれる。

 卒研など雑務も多く、季節のよいときに制作に集中できないことが悔しい。作ったことがない方にはわからないかもしれないが、行為の蓄積である彫刻は、時間が命。直感や閃きだけで作れない。準備と掃除、片づけなどを含めると、日々ほんのわずかしか進まない。部局内で気軽に作品制作を頼まれ(来年3月ダヴィンチ展)作業の重さを本当に感じているのかと憤りさえ感じた。

 12月1日に、農業と芸術の協働である社会連携事業(→ちらし)で、また造形表現を行うことになった。今年は「米」がテーマである。(→コンセプト /構造図)「食」への意識は、環境問題も含め世界の動向を左右するほど重要なものとなっていくだろう。その局面を前に、まず私たちが取り戻さなければならないものは、風土と生活に密着した神聖なる精神空間である。「土への感性」を取り戻すための動きは、何よりも優先して行わなければならない。たぶん後5年程が勝負だと思っている。

 今日英彦山(ひこさん)で大護摩焚きがある。久しぶりに帰省するつもりだ。誓願をたて、力を尽くしていきたい。

11月5日

 

 3日の英彦山護摩焚きを見学。子ども達は炎と煙に魅せられていた。火渡り(消えた炎の上を歩く)をした子ども達は何か自信満々で、かわいかった。経験しなければ、体得できない感受性があると思った。

 翌朝久しぶりに英彦山(標高1200m)山頂で日の出を拝んだ。a.m.4:30に起きて真っ暗な山道を登る。車が上がれない山道の石段、下宮、中宮、上宮の材料ひとつひとつを先代の誰かが運んだのだ。行者とは「行う者」と書く。この山道に込められた思いや行為の蓄積を噛みしめながら歩を進める。11月であの寒さだ。千日行として休まず山頂を目指した先祖達の精神力は、どれほどであろう。山頂は霧が立ちこめ荘厳な雰囲気だ。一足先に里の山伏さんが参っていた。上宮で祝詞をあげ、そのまま南岳山頂を目指す。古代、英彦山には太陽信仰があり(日の子の山)西にある南岳から、東の北岳の日の出を参っていたという。(太陽信仰と北斗信仰が習合したものと思われる)

 来年あたりから環境問題や耐久菌の問題、世界情勢の悪化などが本格化するだろう。胸騒ぎがする。それもあって山にあがった。自然の摂理にそった「素直で穏やかな心」を全ての人々が持てるよう、精進の道を守ってほしいと手を合わせた。目を開いたら霧が晴れ日が差してきた。その光景の美しさに息を呑んだ。漠然と「未来を信じてよい」と思えてきた。

 山を下り実家に戻ると、子ども達はまだスヤスヤと眠っていた。朝食のために子どもとヌカ漬けをあげる。実家のヌカ床は100年以上たっており、抜群においしい。(里に持ち帰ると駄目になるらしい)空気を入れるために底から混ぜておく。こうやってかけてきた手間の蓄積が、文化なのだと思う。先人たちの行為への敬意、自然の神聖さを生活内で感じられれば、人間はもっと安らかでいられるだろう。

11月15日

 今、西岡泰心(たいしん)さんの個展「ベンチ展」が天神の警固神社ギャラリーで行われている。(11/11〜18 10時から19時 →西岡泰心HP)家具なのだが、彫刻作品のように感じられる。木の持ち味を活かしきった作品は、静けさによって発言する力がある。作家の重厚な存在感と精神の緊張感をうつしこんでいるようだ。泰心さんはバリの展覧会で一緒に出品した方で、さっぱりとした本質的な人間的魅力を備えている。昨年、右の親指と人差し指に大怪我をされた。その他の指で玄翁(金槌)をはさみ仕事を続けている。逆にそのリスクが、作品に一種の突き抜けた明るさを与えているように感じた。会場に連れていった子ども達がひたすら元気だったのは、作品から受けるパワーもあると思った。

 ある映画の批評に「憧れはいつか支配欲に変わる」というフレーズがあり、考えさせられた。私は尊敬はしても憧れるという感情を持てない。というのは、憧れられた側の煩わしさが容易に想像できるからだ。憧れる側は、一方的に他者を持ち上げ自らのイメージにはめ込んでしまう。自分のイメージにそぐわない面は認めないどころか、憎みさえする。憧れの背後には、無意識に相手をコントロールし乗り越えたいという願望がある場合も多い。憧れが自己鍛錬の契機になる分は問題ないと思うのだが。八女の黒木町にある泰心さんの工房には、つきせぬ魅力がある。彼のような生き様を知ることで救われる方は多い。泰心さんなら憧れの煩わしさをスッとかわしていらっしゃるだろう。

 

11月21日

 昨年末から思索していたことを「障害者の他者性と芸術表現」という主題でやっとまとめ終えた。先行研究が少なく厳しかったがやりがいはあった。宿題を残していると彫刻に集中できないため早めにキリをつけた。(学会締め切りは1月)際限ない手間を要求するという意味では、文章作りと彫刻は似ているような気がする。どちらも立体的な抽象概念を構築する作業である。それにしても英語能力が全くない私にとって、サマリー(要約)の英訳ほど苦痛なことはない。

 彫刻制作が再開できた。パソコンの牢獄から抜け出した気分である。つな着とドカジャンと軍手を身につけると、しみじみホッとする。つな着に安堵を感じる人間は、本学教員内ではマイノリティーである。外での作業なので、少しでも気温が高い頃に作業を進めたい気持ちだ。

学生たちは学祭色に染まっている。芸工大の頃から続いている学生企画は授業課題作品よりおもしろい。外部発信より内輪受けをねらう面、技術者集団的マニアックさは芸工大時代のままである。

学園祭HP (前夜祭ダンパ二研CBA噴水企画

 

 
 

 

 

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