彫刻は時間を必要とするものである。制作する間に出会ったことを自分で確認するために、内省をこめて記していきたい。 |
3月3日
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週末業務から解放され、やっと英彦山に帰省できる。神事の「お潮井採り(おしおいとり)」があった。2月末日に祓川(はらいかわ)の道39キロを下り、海岸「姥が懐(うばがふところ)」で竹筒に潮水を汲む。それを英彦山に持ち帰り潮水で山中を清めるのである。山伏時代の先祖は馬を使い、道中の村々から歓待を受けた、と父が話していた。塩でお清めをするという神事の原形は、この「海水をまく」という行為なのであろう。英彦山が九州一円に42万人の信徒を持っていた所以として、水分り(みまくり)つまり水を与えてくれる象徴だったことがあげられる。山と海の絆が田畑の食物を育むことを再確認する行事である。山の栄養分が含まれた水は、川と海に住む命にも大きく関わっている。
法螺貝の音が夜間に聞こえ、一行が参道を上がってくるのを知る。地元の方々が焚き火でお迎えする。(実家は参道沿いにある)山中で行われるコミュニケーションは、とても静かである。 翌朝、父が作ってくれた竹の弓矢で、子ども達が遊んでいた。一番喜んで弓を引いていたのは夫だった。 |
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3月4日
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黄砂が煙る福岡を、雨が浄化しているようだ。
ひざまづく象は今、腹を上にしている。上下を逆にすることで、形の狂いや不自然さにハッと気づくことがある。木炭デッサンを勉強していた頃、時々描いた絵を逆さにおいてみろ、と言われた。そうすると誰に言われなくてもトーンや形の狂いに気づく。なぜ逆にしないと気づかないのか。それは、人間が「見たいように見る」生き物だからだ。人は自分にとって都合のよいように(見たいように、聞きたいように、感じたいように)修正してしまう性質がある。見ているはずなのに、思いこんでしまうとそうみえない。それほど人間というものは、自分本位にできている。そういった己の愚かさを熟知し、世界をあるがままに見るということは、よほどの達人でないとできないものだ。 シリコン用接着剤(雌型修復のため)が入荷したので「ダヴィンチの手」の軟質ウレタン鋳造を行う。その質感と色は(予想通りだが)良いものとは言えない。気を取り直して気泡を修正する。説明書をよく読むと、表面コーティング剤と着色顔料が必要とある。私自身の作品に使う可能性ゼロの素材だが、学生さんはわからない。研究費は底をついているので、手出しで勉強だ。 |
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3月5日
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梅の盛りも過ぎたというのに、雪が降る。年々春・秋が短くなり、夏と冬が長く厳しくなっていく。現象が中庸を失い極端に走る様をみるにつけ、人の心の有様と重ねてしまう。
私の今の立ち位置は、様々な世代や立場の方の話を聞く機会が多い。立場が変われば感じ方は180度変化する。どちらの言い分も尤もだと納得できるだけに真実はわからない。そういう時、芥川龍之介の『藪(やぶ)の中』を思い出す。(黒澤明監督が『羅生門』として映画化している)藪の中で武士が亡くなり、その事件についての複数の証言が(発見者のきこり、男の妻、霊媒の口を借りる男の霊、殺人者としての盗人)ただ羅列してある小説だ。どの証言も真実味があるが、全く違う事実を語っている。(どれもが自分を良心的な存在にしている)芥川は、事件の真相ではなく、利己的な人間の本質を明示したのである。 私を含めて、人は自分本位にものを見る性(さが)を持つ。しかし人間の本性に正義を突きつけるのではなく、第3者がその語りをそのままに一端聞くことが大事だと思っている。「自分本位」を誰かに受け入れられたなら、他者本位の視点にも耳を傾ける余裕ができる。そして自らの良心と時間によって「藪の中」から「中庸」に行き着くだろう。 |
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3月11日
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私が青年海外協力隊で派遣されていたコスタリカには「がんばれ」という言葉がない。そのかわり「Vale la pana(バレラペナ)」という。直訳すると「その痛みには価値がある」。苦難を受け止め、人を励ますのだ。好きな言葉のひとつである。
夫はNPO法人エスタスカーサを3年半前に起こした。閉塞的な状況の中で苦しむ人々が自由に立ち寄れる居場所を作りたいという願いがら始まった。人の役に立つ喜びや、よき出会い、違う立場の方への想像力を得る、そんな「場」を作ろうとしている。これは夫が福祉作業所勤務と子育てを経験したことから得た発想である。しかし今、居宅介護事業と子育て支援事業(収益があがりにくい)の折り合いが難しいらしい。エスタスカーサのコンセプトを熟知しているはずの職員間でも、運営方法に関しては温度差があるようだ。 実は今朝、夫が血の涙を流す夢をみた。案の定仕事の合間に、法人運営のことで落ち込んだ夫から電話がかかってきた。事情が把握できない私が言えるのは「初心の種火を絶やさないこと」。このトラップは、きっと方法の見直しを求められているのだ。理解への尽力と工夫で困難は打開できる。経済的な問題ならば、うちから出資してもいい。(貨幣価値など、数年後は恐慌などでどうなるかわからない)これまでエスタスカーサに訪れてくれた人々の思いには責任がある。支え合う喜びと学びが、あの場にあることを、ただ祈る。Vale la panaである。 |
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3月12日
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大橋駅前のルネットでダ・ヴィンチ展が始まった。展示用の石膏作品(ダ・ヴィンチ素描の立体化)と、握手用のウレタン樹脂のものを搬入した。会場では図書館所蔵の約200万円のダ・ヴィンチ素描集、モナリザの立体映像などが展示されている。 後者は奇跡的に間に合った。表面コーティング剤と顔料の混合比を間違え、前日までマダラ模様になっていたのだ。駄目モトでジェッソを塗ってみる。思いのほか、色のつきがよい。台座につけてみると表面の凹凸がやはり気になる。再度駄目モトでヤスリをかける。意外と効いている。アクリル塗料で色を修正する。結局、搬入ギリギリまでその繰り返しである。 それにしてもこんなに失敗を重ねた作品があっただろうか。自分の失敗っぷりに感心してしまう。今後学生がこの素材を使う時は、多くのことを助言できそうだ。→作品ページ |
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3月18日
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制作していたら、男の子が一人やって来た。(工房まるの方の息子さん)なぜかチェーンソー防音具をつけ、彫刻に耳をおしつけている。わけを尋ねると、象のお話が聞こえるのだそうだ。「彫刻を聴く。」いいなぁ、と心から思った。立体は後ろ側が見えない。だから立体とは、常に人の心の中で再構成されて把握されている。つまり目に見えないものを想像することによって、立体は感じられるのである。「聴く」という行為によって彫刻を感じる。正解かもしれない。
この彫刻は5/1〜国展に展示した後、エミール保育園に寄贈させてもらう予定だ。その間を繋いでくれた岡田さんが彫刻を観に来てくださった。このお二人に少しだげ鑿(のみ)を入れてもらった。行為によって、物と心が繋がる瞬間を感じてもらえたなら嬉しい。 |
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3月24日
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22日(土)に糸島のハーブガーデン内でワークショップを行った。九州大学・現代GPの一環である。→現代GPホームページ これは地域の人々と関わり風土を慈しむ心を養う学生教育プログラムである。 今回のワークショップは、まず木製のキューブに色を塗る。上面は今の自分、東面は未来の自分、西面は過去の自分、北面は先祖とのつながり、南面は次世代とのつながりをイメージして彩色。時間を色に置き換えるのは難しいが、思案してもらうこと自体がねらいでもある。3才から70才代の参加者があり、大学生にとっていい世代間交流になった。等身大の馬の彫刻を設置し、馬の上から自分の思いをこめた作品が、可也山と青空に繋がる光景を眺めた。(馬は“ゆっくり歩いていく”という象徴)このワークショップは時間の中で、空間の中で、つながりの中で「ここにいる今の自分」を確かめるための第一歩である 自分の意識と時間とをこめた作品は、たとえ小さくても自己の分身のようなものである。「精神的なつながりが、モノや環境との間に生まれること」そのことが、環境問題を考える上での第一歩だと思っている。 かけがえのない場とそれを慈しむ意識が、世界の隅々まで広がってほしい、そう祈っている。
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3月25日
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長時間鑿をふるい、さすがに二の腕がだるい。(古いネタだが“あしたのジョー”状態である)制作に集中出来る数少ない一日だった。〆切がせまっている。素材が大きいので「宗意」よりも分厚い「このぶ」の鑿の方が威力を発揮している。とはいえあまり勢いをつけて彫ると、木目が巻き込んでいる元(根の方)が変に割れてしまい、涙である。 今日は卒業式。卒業生たちのあでやかな装いで、キャンパスも華やいでいる。私の子供も卒園式(正法寺保育園)を迎えた。卒業文集の最初のページに「内外相看(ないげそうかん)」と書かれている。自己の内と外を同時にみる、という意味である。私たち人間は特に自分の内面をよく見つめよ、とある。「他人の過去・なしたことなさなかったことを見るなかれ。ただ自分のなしたこと、なさなかったことについてそれが正しかったか正しくなかったかを、よく反省せよ。」 − 実に深い言葉だと思った。これは園児と共に保護者に贈られたものなのだ。他人が為したこと、為さなかったことにとらわれているかぎり自己の成長はない。卒園文集、恐るべし。スッと楽になる。 |
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3月31日
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制作は終わり際が一番難しい。最後の1%まできて、あと半分残っている感覚がある。(ゴールと思ったら折り返しだったという)台座との間に転倒をなくす処置をする。風邪が悪化して朦朧とし、穴あけを数回間違った。アンカーボルトを打ち込んでいるだけに始末が悪い。位置をずらし空洞がある木製丸棒でカバーする。失敗する度にクレーンで本体を持ち上げる。 との粉をかけ、たわしでこすり、東芝シリコンワックスをかける。熱っぽいので休もうとしたその時、善ちゃん登場である。(恩師の柴田善二先生)先生の彫刻を盗もうとした輩がいたそうで、破損したブロンズ部分を修理に来られた。珍しく今回の彫刻はけなされなかった。先生と昼食をとっていると版画家・浜田知明談義になる。轟く先生の笑い声に、レストランの客達がひいているのを肌で感じる。善ちゃんが「俺はシリコンワックスの後、リンレイ・ブルーワックスをザッとかけるばい」という。離型用のカーワックスがあったのでみせると「これでも、いいっちゃない」とおっしゃる。そもそも、先生と私は「大体」で話をすすめてしまうタイプだ。特にこのとき思考能力が低下していた私は、試しもせず塗ってしまった。 その後学生研究室の移動があり、力仕事を手伝う。ヘトヘトの状態で工房に帰ってきて冷や汗が。木目に白いワックスが残ってしまっている!再度シリコンワックスを塗り、たわしをかける。年度末は夫も仕事が立て込み、保育園の送迎役もこなさないといけない。しかも夜には子連れで同僚の送別会がある。....夜間に9度近い熱がでて身体が動かなくなってしまった。しかしうちの小猿軍団はいたって元気で、手をゆるめることはない。週末も落ち着いて休めず、月曜を迎える。 今日は休養するつもりだったのだが、論文の校正のため大学に立ち寄る。工房の作品をみかけると、まだワックスが白く浮いているので気になって作業を再開してしまった。歯ブラシに荏胡麻オイルを少し付けこする。そうしながら「自分は本当にバカだなぁ」と心底思う。今は休め、と理性が呼びかけている。しかしその声が手まで届かないのである。ここまでバカになれるものがある私は、本当に幸せ者である。 →完成図
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